都市の哲学 田村敏久・著

それは、わが国のどこの都市にも見られるアーケードです。どうしてアーケードが意味のある場所を回復する人間の欲求を説明しているのでしょうか。

アーケードがもとめられるのは、よく耳にすることですが、けっして路上を雨や雪からまもるためではありません。アーケードが雨や雪を防ぐのはたしかですが、おなじくそれは陽光の遮断という、屋外の場所を人間の場所に演出するうえで致命的ともいえる欠点をもっています。雨や雪が毎日つねに降るわけではありませんが、陽光は強弱はあるとはいえ、昼間なら毎日いつも天空から降り注いでいます。ここではどちらが大切かをこれ以上詮索しませんが、いずれにしろアーケードを防御のための装置と捉えた場合、屋外の場所をつくるうえでプラスの面とマイナスの面をあわせもっています。

私たちが注目すべきなのは、それでもなお人間はどうしてアーケードをつくるのか、またつくりたいと思うのかです。アーケードが雨からまもる役割を担っていると説明されるまえに、アーケードがあらたに設置された場所に身を置けば、そこが以前の場所と決定的にちがっていることが直観されます。それは、もはや雨のことなぞどうでもいいと思わせるほどの劇的な変化です。その変化が空間のどのような変化なのか、私たちにとってはすでに明らかです。

以前の[天井]をもつ、こわされ、ばらばらになっていた空間がアーケードという、いわば作為的な天井をもつことによって一体になり、ひとつの意味のある空間に変質したのです。私たちはそのことを望み、またそれが実現することを知っているからアーケードをつくりたいと思い、じっさいにつくるのです。

しかし天井について検討してきた私たちにとって、こうしてつくられるアーケードが都市を構成するうえでの本質的な転倒であることを見抜くのはむずかしくないと思われます。屋外にも[天井]ではなく天井をもった空間を私たちがほんとうに望んでいるなら、それを建物の外壁によって実現することが、都市をつくるときの課題にならなければならないはずです。そうでなければ、私たちの場所をもとめる内面の衝動はアーケードという倒錯した空間にむけられ、都市に結実することはないからです。

話の行きがかり上、後段で十分に検討されるはずですが、アーケードが倒錯である所以を、ここで簡単に説明しておかなければなりません。雨や雪や陽光の遮断という実利的な問題とはべつに、アーケードの方法が都市を構成するうえでの倒錯であるのは、人間の場所は建物内部と建物外部の弁証法の産物としてあるほかないからです。弁証法という言葉をむずかしく考える必要はありません。それはつまり、人間のもっとも基本的な生活の場所である建物について、外部があるから内部があり、内部があるから外部があるという関係があって、内部での生活と外部での生活は、たがいに他方によって意味づけられているという、内部と外部の必然的な関係です。

この関係をつかまえれば、人間の場所である建物の内部と建物の外部は、たがいが他方を写す鏡となって発展していく以外にその方法がないことが理解されるはずです。そこでさらに考えてほしいのは、都市にあって建物の外部は集合する建物自体によって、街路という特徴的な空間となってあらわれているということです。つまり都市にあって、建物の外部は自然などではなく、建物によってつくられる以外にないのです。ここに自然がおよびもつかない、都市の可能性を発見することができるはずです。

都市の可能性を発見したなら、建物の外部を徹底して外部として、人間がのぞむ最上の外部空間として築き、磨き上げることが、建物の外部についての、したがって都市の課題になります。そうする以外に建物の内部を人間の場所として向上させるとができないからです。つまりそれは、都市において、建物の内部と外部の両方を人間の場所として向上させるただひとつの方法です。

ここまでくれば建物の外部をアーケードのような疑似的な内部につくりかえる方法が倒錯にほかならないのは明白です。アーケードのようなもので満足しているうちは、人間は都市のなかの建物の内部も外部も、自分の場所として向上させることができないのです。私たちは一刻もはやく、このことに気づくべきです。

 

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