都市の哲学 田村敏久・著

大英百科事典は、歩行を人間のもっとも尊ぶべき移動の方法と定義しているといいます。ほんとうにそういえるのか、またどうしてそういえるのか、ここではその根源にたどりつく作業からスタートすることにします。

直立二足歩行によって人類がおおきく発展してきたのは疑いのないところです。人類の歴史をふりかえれば直立二足歩行によって人類が発展してきたのは明らかだ、したがって歩行が尊ばれなければならない。たしかにそのとおりですが、いまを生きる人間にとって、それはあくまでも過去の、しかも時間のスパンを実体験とは無縁なおおきさに拡大したときにいえる話ですから、人類の二足歩行を人類の歴史的発展に結びつけて捉える方法はリアルな感性に訴えかける力に乏しいきらいがありますし、じっさいこの程度に理解におさまっているうちは、歩行が人間のもっとも尊ぶべき移動の方法と捉えられることはありません。

二足歩行による人類の進歩の過程が知識としてはほとんど万人に共有されていながら、結局は歩行者を邪魔者としてしか見ることのない自動車をひとびとが喜々として利用している現状がそのことを証明しています。

そうではなく、歩行なくして人間はみずからの生活を組み立てることができず、したがって歩行が尊ばれなければならない。この現実的な見方にしたところで、歴史をふりかえって歩行を捉える場合からすこしも前進していません。歩行についてこれほど確かな現実はないと思われるのに、なぜでしょう。それは過ぎ去った事実をふりかえって話をしている点で、人類の歴史的事実をふまえて発言する場合とまったく変わってないからです。

この見方によれば、たとえばあることをするために歩行によらなければならない状況があるとして、それが機械文明の発達によって歩行が不必要になれば、そのとき歩行はそれだけ価値を失ったということになります。そうであるなら、人類の発展の歴史は歩行の価値を減じてきた歴史であるでしょうし、今後もその傾向は維持されていくはずです。時間の経過とともに歩行の価値が失われていくというのはおかしな話ですし、またこれからの方向が百八十度転回したら、そのとき歩行の価値が上昇するというのも納得いかない話です。

人間のリアルな感性に訴えかける力に乏しかったり、おかしな話になったりするのは、歩行の意味を探るうえでそこに共通の難点があるからです。すなわち、人間についての物事を捉えるにあたって、過去をふりかえってすでに生起してしまった事実の積み重ねをそのまま受け取っているうちは、人間はいわば過去の亡霊にとりつかれるだけで、現状に正しく立ち向かうことができないのです。

人間についての事実とは所詮、人間が思わずしてしまったことを、あとから意味として、つまり一定の内容をもつ言葉の連なりとして構成したものにすぎません。人間はなにをするかわからないというのが人間にとってほんとうのところですから、人間の真実に接近するには、たんに事実を羅列するのではなく、なにをするかわからない人間が思わずしてしまった、その過程を描くことが本質的に重要になります。それは人間の過去の事実を精確に描くことであると同時に、人間の現在を説明し、人間の未来の方向を明らかにすることに直結しています。人間が思わずしてしまう行為の過程のなかに、人間の真実がもっともよくあらわれているからです。

したがって人間の歩行についても、歩行そのものに立ち返って歩行の過程を描くのでなければ人間は歩行の意味を正しく把握することができません。それはつまり、歩行に哲学を打ち立てることなくして歩行の現状を変革することはできないということを意味します。

 

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