都市の哲学 田村敏久・著

ひとつの場所から別の場所に移動する手段として歩行を捉えれば、現代においては自動車利用もおなじような役割、というよりそのためのより普遍的な役割を果たしています。実生活を反省すれば、だからといって人間の存在の更新という面で自動車利用が歩行とおなじような役割を果たしているとはいえないだろうと予感できるはずですが、場所が変化するというのは、なにも歩行による移動の場合だけでなく、交通機関、なかんずく都市の交通機関として普遍的な自動車を利用する場合にもひとしく言えるように思われます。それでは自動車を利用する場合に、人間は自己の存在を更新しているということができるのでしょうか。

このとき、人間の存在する場所を正確に特定することが問題の構造を明らかにする鍵になります。建物のなかにいる人間の場所は建物の内部であるという常識的な事実は、そのまま自動車にあてはまります。つまり自動車は移動しているけれども、自動車の内部に収容された人間の場所は、あいかわらず自動車の内部のままです。自動車に乗っている人間にとって、自動車の走行に応じて窓の外の景色が変化しますが、それは人間の場所を論じるさいの本質的な要素ではありえません。自動車(ここではその代表として乗用車を想定します)に乗る人間にとって、そのとき場所にかんしてもっとも重要なのは自動車内部のシートのつくりであり内装であり装置であることを反省すれば、このことが実感として納得されるはずです。

つまり、人間にとって場所が変化しているといえるのは歩行によって場所を変える場合だけです。人間の移動という事実の表層から捉えると、歩行による移動と交通機関による移動はおなじようにみえますが、ほんとうはどのような交通機関も歩行にとってかわることができません。交通機関による移動は場所を変えているといっても、それは走行する交通機関を外部からながめ、あるいは目的地に降り立ってはじめていえるだけで、交通機関に乗っている人間にとっての事実は、移動のあいだ交通機関の内部に閉じ込められているということにすぎないのです。

しかも自動車を例にとれば、閉じ込められているその内部は狭小で、ただひたすらじっと座っていなければなりませんから、そこは人間の場所としてけっして良好とはいえません。にもかかわらず大多数のひとびとが緊急の必要があるわけではないのに、自動車利用を喜々として選択しているのは不思議なことです。じっさい不思議というほかない事態が現出しているわけですが、その理由は都市内部の歩行、つまり街路での歩行の意味が剥奪されているからではないかと考えるのが自然です。そうであるなら都市についての本質的な論点が提示されることになりすが、この点についてはおいおい触れていくことにして、いまは場所の変更という面からの自動車による移動の全貌を描いておきましょう。

場所を変え、存在を変えることが人間の内部に潜在する本来的な要請であるなら、その要請にうながされて自動車で場所を移動しようとする人間は、結局はその要請に十分応えられず、しきりに、繰りかえして自動車を走らせるはめにおちいることになるのは、容易に見通すことができます。これも現状の自動車への偏愛を説明する有力な知見ですが、見落としてならないのは、そうしているうちは人間の本来的な要請が満たされる時は永遠に来ないということです。ではどうするか。人間の理性が試さる状況がここに現出しているといっても、まったく大げさではないことが十分に理解されるはずです。

こうして歩行の意味をさぐると、おのずと自動車の問題へと発展していきますが、現状の街路に目をやれば、街路での歩行の形態は街路を共有する自動車との相関としてしかありえないのは明らかです。したがって都市の歩行の問題はすなわち都市の自動車の問題となりますから、問題の解決は両者の解決でなければならないのは論理的必然ですし、一方の側に立っているうちは、それが正義の名にあたいする立場であっても実効性のある解決策がしめされることはありません。

そこで、私たちとしてはつぎに自動車を利用する意味の把握に専念することにします。自動車をただ便利だから利用するというのでは、人間は都市の現状に立ち向かうことはできません。便利だから利用するという人間の自然な反応を、とりあえず善悪とは無関係な人間性の自然な発露と認めながらも、そこから一歩退いて、そもそもその反応を人間はどう捉えているのか、またその反応のほんとうに意味するところはどこにあるのかを客観的に把握しなければ人間の理性が都市に向けられることはありません。人間の理性が都市に向けられることがなければ、人間は都市の現状にしたがう以外にないのです。

自動車を利用する人間の自然な反応を、それを客観的に見る立場から捉え返すというのは、人間にとっての自動車利用の意味を根底から把握することであり、したがってそれは自動車の哲学とよばれるにあたいする作業です。自動車の哲学は、ほんとうは自動車をおもわず利用してしまう人間についての哲学にほかなりませんが、それは一見便利でかっこいい道具である自動車をおもわず利用してしまう人間を見つめることであり、そうした人間の行動が組み合わされて都市にもたらされている現実を冷静に把握することです。

それでは自動車の哲学をつぎから始めましょう。

 

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