都市の哲学 田村敏久・著

便利な自動車を望み、便利だから自動車を利用する、ここに不明な点はまったくないように思われます。じっさい大量の物を建物から建物へ運ぶ点において現状では自動車にまさる道具はありませんし、私たちの生活がそうして働く自動車によって成り立っているのは疑うことができません。この面での自動車の必要性は今後、当分のあいだ変わることはないでしょうし、私たちとしても特別の要因がないかぎり、生活にかかわる自動車の必要性を否定する理由があるわけではありせん。むしろ効率を考えれば、自動車の必要性をむだなく実現することが普遍的な課題になります。

しかし街路の現状を観察すれば明らかなように、街路を走行する自動車のながれのなかで大部分を占めるのは、物を運ぶ自動車(=トラック類)ではなく人間を乗せた自動車です。この形態にある自動車利用についても、物を運ぶ自動車の場合とおなじように、便利な自動車を望み、便利だから自動車を利用する、そこに不明な点はまったくないとなるかどうかは別の話です。それはいうまでもなく人間には歩行という移動手段が生来的に備わっているからですが、歩行という移動の手段がありながら自動車を利用するというなら、その自動車利用のしかたは人間にとってなんなのかを、つまりその自動車利用のしかたを語るときに、単純に便利だからという言いぐさで済ましていいものかどうかを調べなければなりません。これから検討するのは、もっぱらこうした人間を運ぶ自動車の利用形態についてです。また自動車の種類としては、そのなかでも圧倒的な形勢にある乗用車を想定して話をすすめます。

この面での自動車利用について論じるときに、その利用目的がよく話題にされますし、またその利用目的にそって道路の改良がなされているというのが現実です。それらは、通勤、通学、買い物、業務、娯楽といったかたちで表現されていますが、奇妙なのは自動車利用の目的をいったん口にすれば、その自動車利用は人間にとって不可欠なものとみなされ、したがってその実現のために道路を改良しなければならないというふうに事態が推移してしまうということです。それはもはや呪縛とも、また神話ともいえるほどのもので、といってそれが人間として正常な成り行きであるかどうか判然としているというのでもありません。ともかく自動車利用の目的といわれている中身を客観的に把握して、呪縛と神話の世界から脱却することが求められているのは論をまたないところです。そうしなければ人間は到底、自動車を正しく扱うことができないからです。

自動車の利用目的が呪縛になってしまうのは自動車利用の目的が発見された経過に由来します。自動車利用の目的はあたかも自明のごとく扱われていますが、そのじつ、それは自動車利用の事実関係を事後的に断片的に跡づけたときにはじめて言えるものにすぎません。つまり現実に生起した自動車利用を振り返って一定の時間を区切ったときに、はじめてその目的が特定されるということにすぎないのです。

通勤にしろ買い物にしろ一般的に口にされるその利用目的は、結局のところ社会的生活からの必要性に迫られた人間の行動を類型化したものです。そうしなければ普通の人間はとりあえず現状を生きていけませんから、昨日のように今日があり、また今日のように明日もあるはずだと考えれば、それらの目的はあたかも自明で確実であるかのように扱われます。しかし、そうして口にされる目的が人間の生活を語り尽くしているわけではまったくありません。

社会的生活からの必要性を無視するわけにはいかないとしても、だれしも認めざるをえないのは、いったん自動車に乗ってしまえば人間はなにを仕出かすかわからないということです。たとえば通勤という目的にそって自動車を走らせる場合、ほんとうに通勤のためだけだといえるのは怪しいところですし、またはっきりそういえるのは、あくまでひとつの完了した自動車利用を反省する場合だけです。注意深くなれば、その場合じつにさまざまな物事の実現のために自動車が利用されていることを発見できるはずです。自動車利用の目的が事後的で断片的であるほかないのは、自動車に乗る人間ではなく走行する自動車に注目すればより明快になります。

一台の自動車の運動に注目します。冷静にながめると、その運動は走行と停止をくりかえしながら一定の車庫あるいは駐車場を経由する周期的な循環運動であることが明らかになるはずです。自動車が自動車であるうちはその循環運動は宿命のようなもので、けっして運動を止めることはできません。その循環運動は一日を周期とし、また周期自体が一週間を単位に一定のパターンを描いていると捉えられます。そして、かならず経由する一定の車庫あるいは駐車場というのは、もちろんその自動車を所有する人間が決めた自分の自動車の置場のことです。

こうして自動車の運動を捉えますと、自動車は人間の生活とともに運動しているという事実が明確に浮かび上がってきます。また浮かび上がってくる事実はそれだけです。それでは、そこで自動車利用の目的はどうなっているのでしょう。また自動車利用の目的というなら、それは自動車の運動のどの部分に対応していえることなのでしょう。

明らかに、自動車の運動の全体を視野にいれれば自動車利用の目的を特定することはできませんし、またそれ自体無意味なことです。自動車利用の目的を特定できるというなら、それは循環運動のなかから始まりと終わりが特徴的であるような部分を切り取って、はじめて言えるものであることがわかります。つまり、無限の周期的な循環運動を繰り返すほかない自動車についてその利用目的を特定できるのは、すでに生起した運動の一部を切り取って、それに注釈を加えようとする場合だけだということです。

事後的で断片的であるほかない自動車利用の目的をひとたび口にすればどうなるかは、理論的にも説明できます。すなわち、事後的であることから帰結されるのは、自動車利用の目的を口にするひとは自動車利用の状況について過去を現在に投影し、現在を未来に投影する以外にないということ、表現を変えれば過去の亡霊にとりつかれてしまうということです。いっぽう断片的であることから帰結されるのは、そのひとは自動車利用の全体を視野に捉えることができないということです。自動車利用の現実を目前にしたとき、そういうひとたちが現状を固定化し、その高度化にひたすら邁進するはめになるのは避けれない事態です。

自動車利用の目的を口にすることが呪縛や神話になってしまうというのは、こういうことです。たんに物を運ぶという面ばかりでなく、社会的生活を営むうえでの必要性に迫られて自動車利用が選択されている現状は一面ではしかたのないことといえますが、呪縛や神話から自由になって考えることができなければ、私たちは自動車をまちがいなく扱うことができません。ですから自動車利用の目的が口にされるとき、私たちは冷静になって、それは自動車を利用する人間の一部の活動、それも社会的要請を満たす一部の活動に言及しているにすぎないと相対化して捉えることができなければならないのです。

 

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