都市の哲学 田村敏久・著

街路を利用しようとする人間の自然な反応と活動によって街路が今いかなる状況にあるのか、表層にあらわれたすがたに惑わされることなく、その本質を把握し、もってして都市の街路の方向性を明らかにすることがすなわち街路の哲学です。

街路は人間の生活と不可分の関係にありますから、ともかく生活からの必要性に迫られて現にそれなりの形態にありますし、またそうでなければならないのは自明です。これを、街路は生活の必要性を満たしているとも、また都市生活は街路の形態によって規定されているのだともとらえることができますが、どちらの表現が正確なのかをいうことができるのは、街路の現状を客観的に明らかにしてからです。

街路の現状をまちがいなく把握するには、街路をながめる公正な観点を確立しておく必要があります。そこで第一に検討されるべきは、居住環境との関連でしめされるつぎのような観点です。「自動車による騒音、排気ガス、粉塵、事故の危険性、それらが都市の居住環境を悪化させており、したがって自動車の悪影響を少なくすることがもとめられている」。この見方こそ、じつはブキャナン・レポートの基本的な認識であったわけですが、そこからスタートしたレポートがあの程度の提案しかできなかったことからも推測されるように、そこになにか問題があるということなのでしょうか。

たしかに道路事情が劣悪であった以前ほどではないにしても、現状においても自動車のそうした直接の悪影響はだれも目にも明らかです。自動車による悪影響がほんとうに除去されるべきなら、その最善の方法は街路から自動車そのものを排除することであるはずですが、そうは結びつかないところになにかが潜在しています。べつにそう結びつかなければならないといっているわけではありませんけれども、街路から自動車を排除する必要性についての認識があいまいなまま、結局、レポートのように現状の追認に終わっているところが問題です。

都市の居住環境に言及するなら、都市の居住環境がどうかたちづくられているか、その構造を描くことが先決です。本書においても都市の居住環境を主題に展開してきたわけではないといえ、最終的に都市の居住環境の全体像が明らかにされるはずですが、街路が都市の構造にほかならないことを押さえるだけで、都市の居住環境が街路によって構成されているのは明らかですから、街路上の自動車の悪影響を居住環境の問題としてとらえる発想はまちがっていませんし、じっさいのところ自動車のあつかい方が都市の居住環境を築くうえでもっとも重要な要素になります。しかし、街路のいかなる状況が都市の居住環境のいかなる部分を担っているのかを明らかにしないうちは、街路と居住環境をむすびつけることはできません。

自動車が街路に騒音と排気ガスと粉塵と事故の危険性をまき散らし、街路の環境を悪化させ、したがって居住環境を悪化させていると、とりあえず単純にいうことはできでも、それが街路の問題であるわけではありません。それらの悪影響は自動車と道路の改造によって、現代の技術をもってすれば簡単に除去されうるはずだからです(事故の危険性についてはセンサーの装備を考えればいいでしょう)。自動車の直接的な悪影響を口にするひとびとは、街路の状況を問題にしているのではなく、工業製品としての自動車の性能を問題にしているわけですから、自動車の性能の向上が期待される場合に道路から自動車を排除するという話になりえないのは道理です。

街路への影響という面にとどまらず、人間が自動車を利用するなら、静かでクリーンで事故の危険性がない自動車がもとめられているのは説明するまでもないことです。私たちはとしては、そうした理想的な自動車が街路を走行している状況を想定し、そのうえで街路を注目する必要があります。そのとき居住環境上のいかなる問題が街路に生起しているのか、それこそ自動車が街路にもたらしている本質的な問題であるはずですし、また居住環境の本質的な問題であるはずです。ブヤナン・レポートもこの観点に立つことができたなら、もっともまともな提案を考えなければならなかったはずなのです。

以下の検討において、私たちは街路の自動車をながめる立場をここにさだめる必要があります。そのとき自動車と街路の本質的な問題が摘出されるはずです。

 

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