都市の哲学 田村敏久・著

街路と自動車の関係をとらえる公正な観点を確立したところで、街路の現状を注目しましょう。

街路上で歩行者と自動車が混在するのは避けられないとしても、都市のほとんどすべての街路は両側に歩行者のための比較的せまい歩道、中央に自動車のための比較的ひろい車道という形態をもっており、両者の棲み分けがそれなりにうまくいっているようにも思われます。私たちとしては、こうした街路の現状をひとつの調和的世界と考えてよいのでしょうか。

自動車による騒音や排気ガスや粉塵の問題を無視するにしても、ほんとうのところ、それがまたくもって調和的世界などではなく、むしろ人間の隷属を意味しかねない状況であるのは、つぎのじつにつまらないとも思われる事実を注視するだけで明らかになります。それは、歩道と車道に分割されたふつうの街路において歩道と車道の分離はどのような仕掛けによっているかです。いうまでもなく、そのこれしかないと思われ、またそうとして実施されている手法は歩道と車道のあいだに段差をもうけることです。

段差による歩道と車道の分離が、なぜ自動車と歩行者の関係を深く物語るのでしょうか。私たちの常識にとらえられているように、両者のあいだの段差が歩道と車道の分離に有効なのは、自動車はその段差を簡単に越えることができないからです。段差があるために自動車は簡単に歩道に乗り上げることができず、歩道はこうしてはじめて歩道としての役割をはたしています。

一方歩行者にとって、身体的な障害をもつひとをのぞいて、その段差が越えられない段差であるわけではまったくありません。というより、人間が必要におうじて歩道から車道にで出られるように、その段差は人間が簡単に越えられるように考えられた段差です。ここに亀裂があらわれています。しかもそれは、もはや修復しがたい亀裂です。

歩道と車道を分離するには自動車が簡単に歩道に乗り上げられないことが必須の条件となるのを理解するのは簡単ですが、同様に歩行者が簡単に車道に出られないようにする仕掛けの必要性が論じられないはどうしてでしょう。もちろん人間が車道に出られなければなにかと不便であるからですけれども、そう問うこと以上に重要なのは、人間が車道に出ることを防止する仕掛けがないままで、街路の歩車道への分離が分離として機能しえている事実を注目することです。

といっても、それは私たちの常識に照らし合わせれば簡単なこと、人間が不用意に車道に出るのはなにかと危険だからです。人間は経験によってそのことをとらえていますから、客観的に状況を判断できる人間が不用意に車道に出ることは滅多にありません。しかし、子供や老人といった客観的判断に不足する場合に、車道に不用意に出る可能性が交通事故の危険性として語られているのはご承知のとおりです。

この事実を冷静にとらえてみてください。そうすればつぎの構図がえがかれるはずです。街路を歩道と車道に分離し、それを分離として問題なく機能させるうえで人間が歩道から車道に出ることを防止する必要がないのは、街路を利用する場合に自動車が脅威になっていることを人間は理性によって判断し、自らを制御しているからです。ここを押さえれば、歩行者は自動車にとっての本質的な脅威ではないからこそ、自動車を歩行者の場所である歩道へ乗り上げることを防止する仕掛けが必要となる実情を明確にとらえることができるはずです。

歩道と車道に分けることで 、街路に混在することが避けられない歩行者と自動車、両者の棲み分けがそれなりにうまくいっているように見えたとしても、それは街路にひとつの調和的世界が現出しているというのではまったくありません。それは自動車の歩行者にたいする一方的な脅しによって、かろうじて保たれている状態にすぎないのです。これはすなわち、人間が街路で自動車に隷属させられていることを意味します。

 

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