都市の哲学 田村敏久・著

この章の題目を場所の哲学としたのは、場所という言い回しがあまりにも当たりまえの表現であることを踏まえて、私たちにとって場所とはどのような存在なのか、その根底に立ち返って場所というものを捉える必要性を強調したかったからです。

それでは私たちにとって場所とはなんでしょう。そう発問するまえに、ひとつの場所に存在するから私たちは存在できているというのが実情ですし、私たちの行為の発現のしかたは存在する場所にその基幹的な部分で支配されています。じっさいのところ、私がこの本を書いているのも、あなたがこの本を読んでいるのも、それなりの場所にいればこそです。こうして、私たちの存在そのものがすでに場所に決定づけられている事実を簡単な反省によって明らかにすることができますが、そこから私たちにとって場所とはなにかという問いに十分な答えをだすには、そもそもの場所が場所となって私たちに対してあらわれる経緯を把握するところから始める必要があります。

実生活からの要請にしたがって、ひとつのそれなりに特徴的な場所にいることは、すべての人間にとって避けられない当たりまえといっていい事態です。しかし、この当たりまえの事態になかに人間にとっての場所の本質を垣間見ることができます。つまり人間は生きているなら、赤ん坊のときをのぞいて、いまどこにいるのかをつねに言えなければならないならないし、変な表現ですが、かならず納得して言えるようにするということです。これは当たりまえのことでしょうか。神様が上空から見おろして、あの人間はあそこにいると言うのは、人間の存在を特定するための不可欠の方法と考えられますけれども、ひとりの人間が自分はいまここにいると言明する必要性がはじめからわかりきっているというわけではありません。

またさらに場所という表現そのものが、あたかも空気や水のように人間にとって自然なものと考えることはできません。たとば見渡すかぎりの草原を想定してみてください。そのとき、そこに連れてこられた人間は、自分はいま草原にいると理解できても、草原のなかのどの場所にいるかを知ることができず、したがっていまどこにいるかを言うことはできないはずです。つまりそのとき、その人間にとって場所は失われているのです。場所を失った人間がどうなるか、自分を見渡すがぎりどこまでも広がっている草原に置いてみてください。生活の場所として不足なく用意されていると想定してもなお、それは恐ろしいほどの茫洋とした世界です。

こうして場所の意味の一端に触れればなおのこと、その本体に分け入るには、場所が場所となって私たちに対してあらわれる経緯をつかみだすところから始める必要があることが理解されるはずです。

 

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