都市の哲学 田村敏久・著

場所を察知し、場所を承認することが、私たちと場所の関係の枠組みをかたちづくる二本の柱になっています。場所の察知については後ほど、その機構を解明するところでさらに検討されますから、ここでは場所の承認について人間の行為との関連から検討を加えておきましょう。

いま想定している場面では、通りを歩くという、いささか単純な行為……しかし歩行が人間を自立させているもっとも基本的な行為であるについては後段でふれます……との関連でしめされる場所について検討しています。したがって場所の承認というのも、歩行という行為を継続するかぎりでの、目新しい場所を過去のデータと照合するという面から表現されていますが、察知した場所を承認する意味の全容は人間の行為と関係づけられてはじめて明らかになります。

行為というとかたぐるしい言い方のようですが、なんのことはない、ようするに人間がなにかをしている、そのしているなにかのことです。なにかをしているから人間は生きているといえるのですから、人間にとって行為は生きている証であり、また生きていることそのことの表現です。

そこで人間の行為の形態について振り返ってみますと、行為と場所の不可分の関係が発見されます。人間がひとつの行為を起こすにあたって、存在する場所と無関係に行為が発現されるというのはありえないことです。つまりそれは、なにかをしているのは、それにふさわしい場所にいるからという関係です。場所と行為の関係は社会規範として枠がはめられている部分もありますが、それより注目したいのは、もともと行為と場所の関係は人間の自然な反応としてあるということです。社会規範としての行為と場所の関係も、もとをだどれはその人間の自然な反応を固定化したものとみなせます。人間の自然な反応としてある事実を無視して、人間の自然な反応を社会規範として打ち立てることはできないからです。

たとえばいま想定している通りを歩くという場面において、ともかく歩行という行為が継続されているうちは、知らないうちに建物が壊されるというような特殊な場合を除いて、なにごとも起こらないように見えますが……じつはここにも行為と場所の関係は普遍的に作用しており、それが都市の本質的な問題をかたちづくっているについては後で論じられます……、そこから歩行をやめて(現代でほとんど見られませんが)携帯の食事をとるというようなことをしようとしたらどうなるでしょうか。休憩し食事をとるのにどこでも構わないということにはなりませんから、そのためにふさわしい場所を探さなければならないはずです。

行為にふさわしい場所を探すということは、場所の承認は発現しようとうする行為に従属している、というより人間は行為を発現しようとする姿勢のなかで、はじめて場所を承認するということです。むずかしそうな言い方をしているようですが、つまり人間はしようとすることのために場所を探し、そうして場所を探し当ててはじめて納得して生きていけるということです。この場所と行為の関係は本書の基調となって展開されていくはずです。

人間は行為にふさわしい場所を探しますが、つねに探し当てることができるわけではありません。しようとする、またしたいと思うことがあるのに、そのためにふさわしい場所が見つからなかったらどうなるでしょうか。人間の存在の根幹にふれる問題に発展していくことが容易に想像されるところですが、この疑問は建物と街路に閉じ込められている都市の人間にとって、屋外の唯一の場所である街路が行為の場所として受け入れられない場所ならどうなるかというかたちで、都市においてもっとも強調されることになります。さきに街路と歩行の関係が都市の本質的な問題をかたちづくっていることを示唆しましたが、それはまさにこの観点からしめされるものです。しかし街路と歩行の関係についての本格的な展開はもうすこし検討してからです。

 

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