都市の哲学 田村敏久・著

では、私たちに対して場所はどうあらわれているでしょうか。この問いに答えるにも、通常の場面を想定しているかぎりは太刀打ちできません。私たちにとって場所があまりにも日常的だからであり、またそれだけ私たちの生活と分離しがたく結びついているからです。そこで日常をずらした次のような場面を想定します。といってもそれは突飛なものではなく、むしろよくある場面といっていいものです。そして、そこでの私たち自身の反応を調べてみようというわけです。

通い慣れた通りがあるとします。旅行かなにかの都合でしばらく歩くことのなかったうちに、通りに面する比較的目につく建物が取り壊されたとします。それを知らないで、そこを通りかかる私たちはどう反応するでしょうか。えっといってびっくりするにちがいあいません。気づかすに見過ごすなんてことは、ほとんどありえないことです。びっくりするといっても、あたりを見回せば当の建物のほかは以前のままです。ですから、だれかに顛末を確かめなければならないけれども、私が知らないうちにあの建物が壊されたのだ、そう理解してびっくりした状態からかろうじて立ち直っているというのが実情です。

現実にはありえませんが、そのときあたりを見回しても以前の状況を確認できなかったら、大変なことになるのは容易に想像されるところです。それが大変なのは、私たちの存在そのものに直接にかかわってくるからです。いまはしかし、そこまで話をひろげないでおきましょう。

場所があらわれる過程を明らかにする鍵は、私たちはなぜそのときびっくりするのかという、いささか素朴ともいえる疑問にあります。見知った建物の不在が不在として認識されるからといっても不十分ですし、より直接的に、見知った建物が見えないからと説明しても十分ではありません。明らかにされなければならない本質的なところは、そのことがなぜ私たちをびっくりさせるのかにあります。そこで考えてみますと、見ようとしなければ見えないからといってびっくりすることもないのですから、その解明への足掛かりとなる問いは、私たちはなぜその建物を見ようとしたのかです。

いま考えている場面を規定するのに、その建物が、たとえばそこ関心のあるひとが住んでいるというような特別な建物である必要はまったくありません。ですから、そうした関心をもって見ようとしたと考える理由も必要もありません。ではなぜ、そこにあるはずのいつもの見知った建物を見ようとしたのでしょうか。

ここで私たちの自身の反応をじっくり反省してみましょう。そうすれば私たちとしては次のように結論するほかありません。

私たちがその建物(以下、適当な範囲で建物Aと呼びます)を見ようとするのは、けっして建物Aを見ようとすることではありません。わかりにくい表現ですが、つまり、そのとき私たちは建物Aそれ自体を見ようとするのではなく、建物Aを構成要素とするそこの場所を見ようとして建物Aを見るのです。そして建物Aの不在によってそこの場所が変質したことを一瞬のうちに感じ取り、したがってびっくりするのです。

しかしこのとき場所の変質は根本的な変化ではなく、以前の場所の部分的な変化であることを知って、私たちたちは納得して立ち直ることができるのです。

 

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