都市の哲学 田村敏久・著

天井の存在について、ここでもういちど確認しておきます。天井という実体の有無とはべつに、屋内、屋外に関係なく、視界のなかで壁の上部に広がってなにかしらの意味をもたらす範囲という言いかたで天井が定義されることを見てきました。これまで明らかにされたその意味とは、空間構造の表示という場所に生きる人間にとってもっとも基本的なデータにほかならないわけですが、つまりここにおいて、天井は壁の上端が描く図形として扱われていることになります。したがって角柱になぞらえられる空間が当然のことながら、屋外にも存在することがわかりますし、これまでの検討は屋外、屋内に関係なく当てはまることも理解されます。

問題は角柱になぞらえられるような、いわば整ったかたちの空間ではなく、わが国の都市に普遍的にみられるような、高さがふぞろいの建物群が並列してかたちづくる空間です。そこでは、おおむね水平な床と、そこから鉛直に立ち上がる壁という、ふたつの基本的な要件はともかく備わっていますから、床の形状が壁の配置形状を表示し、また床に存在するさまざまな物によって床の形状を表示する境界の一部が隠されているという状況は、角柱の空間の場合と異なるところはありません。したがって問題の核心はもっぱら、視界のなかで高さがまちまちな建物の上部に広がる、私たちにとって天井とよぶべき範囲にあります。

この場合、天井とよぶべき範囲は角柱の空間のようにもはや床の写像ではありませんし、視界にあらわれるその形態に統一性はありませんから、ほんとうに天井とよんでいいのか疑問になります。この意味から以下では当面のあいだ、天井と一般的に定義されるものを、角柱になぞられられるような空間の場合にはそのまま天井と書き、ここで想定しているような壁の上端がまちまちである場合には[天井]と書くことにします。

[天井]を問題にするには、ふたつの観点からアプローチする必要がありますし、またおのずとそうなるべきものです。今後の見通しを明るくするために書いておきますと、ひとつは[天井]そのものの空間にたいする働きを天井の働きにそって客観的に解明することです。ふたつは、天井部分が天井ではなく[天井]となってあらわれている事実に立ち向かう姿勢についてです。両者は一体の関係にありますから、折に触れて観点を変えながらアプローチすることになるはずです。

そこで[天井]の働きを明らかにするまえに、まずは後者の観点から、天井部分が天井ではなく、[天井]となってあらわれている事実の意味するところの概略をつかまえておきましょう。

角柱の空間では、空間のすがたについてのたしかな情報が天井に集約され、人間は天井を視界におさめて空間の構造をくまなく知ることができます。空間のすがたについてのたしかな情報が天井に集約されているというのは、天井という存在が人間にたいして空間の構造を表示する方法として、もっともよい方法だということです。したがって、場所の察知がもっともよくなされるのはこのときです。

人間は自分の場所を察知しなければ生きていけません。しかし場所の察知と無関係に、どんな場所であれ、そこで生きていくことが人間に不可能であるわけではないだろうという反論が予想されますが、生きるということの内実を問うのでなければ、そう言ったところで無意味です。人間は自分で自分をささえ、自分という人間を展開するために、その端緒として自分の場所を察知し承認する必要があります。そうだからこそ人間は建物をつくってきたのです。

場所の察知がそういうものであるなら、人間にとって場所の察知は明快で確実なものであることが求められるのは論理的な帰結ですし、明快で確実な場所の察知をもとめているのは、そうと意識されていなくとも、人間の内奥に存在する本源的な欲求であるはずです。人間の見るという行為だけで意味づけられている天井が、室内空間では、どこでもそれなりにきれいに仕上げられている事実を反省してみてください。そうすれば、明快で確実な場所の察知をもとめている人間の本源的な欲求を予感できるはずです。

天井部分が天井ではなく、[天井]としてしかあらわれない空間では……空間について[天井]がしめしている内容を正確につかむことが先決ですけれども……、したがって場所の察知はもはや明快で確実なものではありえません。そうなるとどうなるかは、この段階でははっきりいえませんが、場所の承認にからんで、場所と行為の関係に発展し、結果、場所のあらたな構成へと人間をみちびくことになるはずです。

[天井]の問題が人間の姿勢にふれることを示唆したとろで、つぎに[天井]そのものの解明に着手しましょう。

 

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