都市の哲学 田村敏久・著

どのような空間であれ、水平な床とそこから鉛直に立ち上がる壁があり、床の境界は壁の配置形状を明示しているという状況に変化はありません。しかし床と、床と壁の境界をながめているうちは、空間はあらわれず、場所を察知しようとする内面の必然的な働きに促されて、人間はつぎに壁の上端の形状を見て確認しようとします。角柱になぞられられる空間では、そのとき天井があらわれ、それは壁の上端の高さに置かれた壁の配置図形にほかなりませんから、人間は天井を視界におさめて、空間の構造を最上の明快さをもって把握し、場所の察知はなんなく完了します。

壁の高さがまちまちで壁の上端の形状が[天井]としてしかあらわれていない空間であっても、床の境界が壁の配置形状を明示しているという、あらゆる空間に共通の状況を踏まえて、場所を察知するために壁の上端の形状を確認しようとするのは人間にとってごく自然な行為であり、またそうする以外に人間は空間の構造を知ることができません。ところが、そのとき視界におさめられるのは床の写像としての天井ではなく、それには程遠い形状の[天井]です。

ここで第一に確認しておきたいのは、水平な床とそこから鉛直に立ち上がる壁という、空間をかたちづくる普遍的な方法を前提したとき、壁の上端がどのような形状であっても、空間の構造は壁の上部にひろがる範囲として定義される天井というかたちで人間にたいしてあらわれる以外にないということです。天井は空間の構造をしめす具体的なかたち、つまり空間の端的な形象であり、またそういう存在としてただひとつのものです。そうであるなら、空間の構造を知ろうとしたら人間はこのときもやはり[天井]にたよる以外にありません。しかし[天井]は、もはや床の写像、つまり壁の配置形状を写し取ったかたちをしていません。

これがいかなる状況なのかは、高さがふぞろいの建物の外壁がかたちづくる空間を想定して、より細かくつぎのように説明されます。

ひとつひとつの建物の外壁の下端は、それぞれ床の境界として働き、たがいに連続して床をひとつのかたちに見せています。ところが、ひとつの建物の外壁のおおむね水平な(あるいは水平に抽象される)上端は、それぞれ床の境界の働きをしている外壁の下端の写像であるのはまちがいないのですが、それらはまちまちの高さに置かれているため、相互に連携して床の写像を一定の位置に形成することはありません。壁の高さがそろっていれば、壁の上端の位置に形成されるはずの床の写像が、高さのふぞろいによってばらばらになっているわけです。さらに床の写像がばらばらになっている程度は、建物の高さのふぞろいの程度に一元的に左右されているのも容易に理解が及ぶところでしょう。

[天井]とはすなわち、こわされ断片となった天井の集合にほかならず、したがって天井が空間の唯一の形象であることの避けられない帰結として、[天井]をもつ空間も、おなじくこわされ断片となった空間の集合なのです。とはいえ、私たちの外部空間として日常生活ではむしろ普遍的である[天井]をもつ空間を、こわされ断片となった空間であると私たちは意識しているわけではありません。その理由は、それらの空間は私たちの逃れられない生活の場所として、はじめから存在していたからです。私たちは、どのような場所=空間であるのかを知らないまま、そこで生活をすることを強いられているというわけです。

こわされ断片となってちりぢりになった空間が、人間にたいしてひとつの意味のある場所としてあらわれることはありません。人間は、そこではほんとうのところ意味のある場所を回復する欲求を内部にかかえているのです。この表現がおおげさだと感じられるひとのために、このことを説明する具体的な例をかかげておきます。

 

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