都市の哲学 田村敏久・著

都市に生活する人間にとって街路が都市の場所とよぶことができる唯一の場所であること、都市の人間は街路での歩行によって自らの存在を更新できること、それは都市の人間が都市という生活形態によって自らの存在を更新する端的な、しかも比類のない行為であること、これらをすでに確認してきましたが、その基底にながれているのは場所の察知と承認という、人間の存在をささえている契機にあるのはいうまでもありません。

そこから話をさかのぼって確認しますと、場所を察知し承認しなければ人間は自分をささえることができないというのは、人間と場所は一体の関係にあり、したがって場所と分離して人間の存在をあつかうことはできないということでした。場所を自分のなかに取り込まなければ人間は生きていけないというのは、結局、場所が人間の存在のしかたを明示しているということです。人間の存在は、存在する人間自身によってではなく、存在する場所によってはじめてしめされるのです。

さらに話をさかのぼれば、場所を察知するというのは見ることによって場所の構造を把握することでした。場所の構造は天井にもっともよくあらわれており、したがって天井がいかなる形態をなしていようと、つまりその範囲がもはや天井とはよべない形態をなしていようと、人間は天井を視界におさめて、天井が発する情報を入手するかぎりにおいて空間の構造を把握することができます。空間の構造は一定の高さの壁がかたちづくる天井にもっとも明快にあらわれ、したがって人間はそのときもっとも明快に場所を察知することができます。このため、人間はほんらい一定の高さの壁がかたちづくる空間を必要としているのです。

以上はこれまで確認してきた場所と人間の不可分の関係を整理したものですが、自動車にたいしてスーパーマンとなった人間が街路でどう行動するかを明らかにするには、この場所と人間の根源的な関係に立ち返って考察する必要があります。街路における人間のもっとも本質的な行動は、そこではじめて明らかにされるはずだからです。それでは、歩道−車道−歩道と分割された街路に存在する人間は街路という場所をどのように察知できるのか、つぎに調べることにしましょう。

現状の街路では、歩行者は歩道という窮屈な場所に押し込められています。歩道を歩くのがあたりまえと思っているうちは気づかないことかもしれませんが、冷静になってちょっとでも現状を反省すれば、こう表現するのがごく自然であるのは十分に理解されるはずです。こうして歩道に押し込められた歩行者にとって、街路という空間は街路の端からとらえられる街路の天井によって、そのすがたをあらわしています。

そこから前進しないかぎり街路の天井の客観的な形態に変化はないはずですが、進行方向と直交する方向に、つまり街路の幅の方向に位置を変えれば、視界にとらえられる天井図形は変化します。街路での経験をふりかえれば、そのとき大方∨のかたちをなす天井図形が、その二本の稜線の勾配を相互依存的に変えながら変化していく様子を、容易に思い浮かべることができるはずです。

しかしこのことをもってして、そのとき現出する空間が変化したというわけではないのは私たちの直観がとらえているところです。それは、客観的には同一の天井をちがう方向からながめることの直接の帰結にすぎないからですし、じっさい私たちは状況をそう受けとめています。ではそのとき、現出する空間のなにが変化したということになるのでしょう。

 

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