都市の哲学 田村敏久・著

それならどうするかは後段で本格的に展開することにして、都市の自動車利用の問題を根底から捉える作業を継続します。そこで一休みというわけではありませんが、自動車をべつな角度から捉える視点をここで簡潔に提示しておきたいと思います。これも後段において本質的な論点を提供することになるはずです。

いま自動車として乗用の代表である自家用車を想定します。そうすれば、自動車がたんに移動のための道具だという見方が、捉え方において不足していることが常識的にも明らかになります。移動のための道具であるのはまちがいないとして、それはまったくもってたんなる道具ではありません。移動性能が問題になるだけでなく、内部空間の質が問われますし、また外観の美醜が競われます。この事実を人間が必要としてもとめる道具一般にたいする自由主義経済下における人間の普遍的な反応としてだけ捉えても、べつにおかしくないように思われるかもしれません。しかしほんとうは、そこに都市の根幹にふれる問題が内蔵されていることが徐々に明らかになっていくはずです。

道具としての自動車が問題にされる観点を(1)移動性能、(2)内部空間、(3)外観の三点に整理すれば、現状ではもはや自動車にもとめられる本来的な性能である(1)よりも、後二者が問題の焦点になっている感があります。この(2)と(3)こそ、じつは建物にもとめられる本来的な性能であったわけですから、このことは自動車が移動のための道具としてよりは人間を収容する空間として位置づけられている実情を端的に説明しています。現代人は自動車をたんなる移動のための道具ではなく、人間を収容して移動する空間=場所であると、またそうしたものとしてこのうえなく大切なものであると捉えているのです。

しかしこの点も冷静になって考えてみれば、洗練さを加えていく人間の歴史的発展のナチュラルな結果であるとみなせないわけではありません。自動車に乗るなら、かっこいい外観と豪華な内部をもった自動車のほうがいいのは誰にとってもあたりまえですし、そのことを否定するほうがどうかしています。

問題は人間の自動車へのそうした反応がファナティックなまでになっている現状にあります。ファナティックであろうと、話がそれだけで終わるなら問題はなにもないといっていいはずですが、ファナティックなまでの自動車への反応が都市の状況とどのような因果関係になっているかを反省することがなければ、そう断定しても無意味です。

なにごとにたいしてもファナティックになっては、人間は冷静に対応できないはずですが、自動車へのそうした人間の反応をどうとらえるべきなのでしょうか。それをほんとうにファナティックだと、つまりほんとうに狂信的だと、だから人間は自動車を冷静にあつかわなければならないし、また人間と自動車の本来的な関係をとりもどせば、おのずとそうすることができるはずだと断定するたしかな理由があります。

ここですでに検討してきたつぎの三点を思い起こしてください。

  1. 人間の歩行は、移動の手段として、なにものにも置き換えることができない。
  2. 自動車が走行し、人間が歩行する場所として、都市には街路以外にありえない。
  3. 街路は都市の骨格であり、都市そのものにほかならない。

これらを考え合わせたとき、私たちとしてはつぎのように結論する以外にないはずです。

自動車の走行と人間の歩行、この両者の本来的な意味が剥奪されないかぎり、都市を舞台にして自動車の走行と人間の歩行のあいだに弁証法が機能するはずであり、そのとき都市の人間は都市生活のたしかな実りを手に入れるはずだと。

 

プロフィール