都市の哲学 田村敏久・著

地域が幻想の産物だといわれても、地域はとてもポピュラーな言いかたですから面食らうかもしれません。地域が幻想だというのは、地図上に地域がどう表示されるかではなく、私たちの都市生活の現実に地域がどうあらわれているかを反省する場面で、まさに一目瞭然となります。

ひとつの地域が地図上にしめされたとします。私たちはその地域をどう体験できるでしょうか。あいかわらず街路として、両側を特徴的な建物で囲まれた特徴的な街路として、またその集合として体験する以外にありません。都市に存在するのは街路であり、また街路だけであり、地域は都市に実存しないたんなる幻想にすぎないことが、こうして疑う余地のないほどの確実さで明かされます。地域を口にして都市に言及しようとするなら、それが幻想にほかならないことを肝にめいじて、地域が現実の都市になにをもたらすかを反省するのでなければ、たんに無意味であるだけなく、いたずらに混乱をまねくだけなのを私たちは知る必要があります。

それならブキャナン・レポート(以下では、たんにレポートといいます)が提示した、居住環境地域なるものを都市の細胞(セル、あるいは交通セル=トラフィックセル)として都市全体を居住環境地域によって構成しようとするセルシステムが、その実現はとうてい叶わないことであったのは当然の帰結だとしても(まえにいいましたが、実現されたセルシステムはべつの原理によっています)、世界中の識者にかくもやすやすと受け入れられたのはどうしてなのでしょう。しかも提案されてから半世紀近くが経過したいまもなお、現実にあてはめるのがむずかしいのは、たんに決断力に欠けるからだとみなされて、その信憑性が問われていないのは驚くべきことといっていいかと思います。

居住環境地域が通過交通の排除によって交通の鎮静化が達成された、あたかも有意義な自立した地域であるかのようにみなされているのは、そこにトリックがあるからです。トリックが見破られていないから、その信憑性が問われることがないのです。そうであれば、ここで居住環境地域を自立した地域にみせているトリックをあばいて見せる必要があります。興味のないひとは退屈かもしれませんが、自動車の問題をあつかって世界中の人間がどうだまされたのか、まただまされ続けているのか、謎解きとして付き合ってもらえばおもしろいかもしれません。

レポートは無用の通過交通が排除された有意義な地域を想定します。そして、そうした居住環境地域とよばれるにふさわしい地域によって都市を覆い尽くせば、自動車交通の鎮静化が図られて、都市の居住環境は守られるはずだと考えました。通過交通とは、また地域とはなにかを問うことを忘れなかったら、この考えそのものの無謀さに気づいたはずですが、レポートはともかくそうして突き進んでしまったのです。

言葉だけではわかりにくいところが出てきますから、以下ではレポートのなかで居住環境地域の原理をもっとよく説明している図を掲げて、図にそって居住環境地域を解剖していくことにします。

 
 

右図は居住環境地域を成立させるためにもとめられる道路の体系をしめしてしますが、ここでの道路はただの道路ではなく分散道路だといいます。レポートは都市の道路を分散道路とアクセス道路に峻別します。前者はもっぱら自動車を効率的に流す道路で、建物の前で発着できるのはアクセス道路に入ってからです。

アクセス道路は図示されておらず、局地分散路に接続して配置されるということですが、この点にこだわるとまた複雑になりますし、図示された道路を普通の道路とあつかっても問題の構造はかわりませんから、以後の話は道路の種別を問わずにすすめます。

図のなかで居住環境地域は点線で囲まれて明示されています。たしかにこの図を素直にながめれば、居住環境地域は通過交通から守られているように見えます。しかしそれは図示された道路の配置形態による直接の帰結にほかならないことに注意してください。つまり、はじめに居住環境地域があるのではなく、道路の配置のしかたによって、あたかも居住環境地域と呼びたくなるような地域が浮かび上がって見えるということにすぎないのです。

この点に気づけば、居住環境地域を問題にするまえに道路の配置方法の評価が先決であることがわかります。それがなされないうちは、この原理図そのものが無意味になってしまいますので、道路の配置方法としていかなるものなのかを見極める作業が前提としてどうしても必要です。しかしこの図をみて狂喜しているうちは冷静さを欠いてレポートとおなじ轍をふむことになりかねませんから、居住環境地域が浮かび上がって見えるというのが、どういうことなのかを把握しておきましょう。

結論からいうと、図のなかに居住環境地域を見ることがそもそも幻想であり、すべてのまちがいはここから出発したのです。たとえば、その必要性はさておき、居住環境地域をくくる点線の囲いを地域の半分だけ上下左右のどちらでも移動してみてください。そのとき、都市を覆う居住環境地域は通過交通をもっとよく含む地域ということになります。いったいこれはどうしたことでしょう。地域のくくり方に問題があるといっても、それはあくまで地図上の話、現実の都市に変化があるあわけではありません。ひとつの都市にふたつの現実があることになってしまうのは、居住環境地域を浮かび上がらせているトリックにぼろが出てきているからです。

そのトリックとは、居住環境地域の境界となる道路の存在を無視することです。ここに気がつけば、居住環境地域の外縁部は過酷な通過交通にさらされていることがはっきり見えてくるはずです。過酷というのは、図の道路の配置方法では境界となる幹線道路に通過交通がより集中するという意味です。

自動車利用を前提すれば、自動車をながす便利な道路がなければなりません。たったこれだけの理由から、通過交通から守られた居住環境地域によって都市を覆いつくすことの不可能性が説明されてしまうのです。

レポート程度の居住環境地域ならあらためて構想するまでもなく、すでにあらゆる都市に現に存在しているといえます。たとえば国道と県道と広幅員の市道にかこまれているような地域がそれです。このような地域を通り抜けて国道から県道へ、あるいは県道から広幅員の市道へ自動車を走らせることは普通は考えられません。それはいうまでもなく不便だからです。

人間は自動車そのものをあつかって、もっとも便利な方法で走行するという自動車についての単純極まりない原理にしたがう以外に方法がないことは後述されるはずです。

分散道路体系の原理

ブキャナン・レポート日本語訳44ページに掲載された原理図。直線が分散道路で太い順に「幹線」「地区」「局地」にランク付けされる。居住環境地域は点線で囲まれて示される。

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