都市の哲学 田村敏久・著

話を手際よくすすめるために、人間が自動車に期待する便利さをブキャナン・レポートにならってアクセシビリティと表現することにします。ブキャナン・レポートとは、イギリス政府が1963年に発表した『都市の自動車交通』 (TRAFFIC IN TOWNS)と題する研究レポートのことで、研究グループの委員長がコーリン・ブキャナン氏であることからそう呼ばれています。

アクセシビリティとは英語で、もとの言葉は「接近」を意味するアクセス (access) です。それが形容詞化されて「接近しやすい」という意味のアクセシブル (accessible)になり、されにそれが名詞に変化して「接近のしやすさ」を表現するアクセシビリティ (accessibility) になったという具合です。「接近」という言いかたは自動車利用の便利さを表現する言葉として異質なように思われるかもしれませんが、都市内部の自動車交通は一定の目的地に到着することを目指しているのですから、ある場所を出発して目的地へ到着する、その過程を「接近」と表現するのは意外と適っていることが理解されるだろうと思います。

ブキャナン・レポートは、自動車の良いアクセシビリティはふたつの要件で構成されるといいます。それは、ひとつには目的地へ安全にかつ適度な速度で、運転する側からみて快適に移動できることであり、ふたつには目的地に入り込んだら規制なしで駐車できることです。いくぶん身勝手すぎるような気もしますが、ともかく自動車を十分に利用するには安全かつ快適に移動できるだけでは不足しており、目的地に自由に駐車できるのでなければならないことは明らかです。以下では自動車のアクセシビリティを構成するこのふたつの要件をより簡略化して、「快適な走行」と「自由な駐車」と書くことにします。

ところで、自動車のアクセシビリティをこう定義したとたん奇妙なことが起こります。つまり、快適な走行と自由な駐車というアクセシビリティを構成するふたつの要件は、ごくナチュラルに思考すれば、それ自体が矛盾しているということです。自由な駐車を具体的な状況としてどう想定するかはさまざまありますけれども、都市においてごくナチュラルなそれは、目的の建物に到着した路面上でそのまま駐車することです。広い前庭がある場合をのぞいて、ということはごく普通の場合に、これ以上に自由な駐車はありえないはずです。

では自由な駐車を認めればどうなるか。そのとき快適な走行が妨げられ、さらにその後の別な自動車のアクセスそのものが阻害されることになるのは現実に生起している事実であり、都市の自動車問題の主要な関心事になっているのは、すでにご承知のことと思います。駐車の方法はいろいろあるといっても、到着した建物の前面の道路での駐車がもっとも自由な、したがってもっとも便利な駐車の形態なのですから、アクセシビリティを構成するふたつの要素は矛盾する関係にあるのを免れません。

自由な駐車を認めれば快適な走行が妨げられ、アクセスそのものが阻害されることになるのは、そこが都市だからです。自動車の街路にたいする要求が、それだけ輻輳しているのが都市なのであり、街路上で輻輳する自動車の要求を人間の理性の活動の成果にほかならない都市の論理にしたがってどう折り合いをつけるか、その方法をさぐるのがここでの私たちの作業であるわけです。それはともかく、都市において自動車のアクセシビリティを構成するふたつの要素が矛盾する関係にあるということは、都市において自動車のアクセシビリティの無制限の拡大は、もともとありえないことを示唆しています。

だから駐車の方法が問題なのだという主張がここからたやすく生まれてきます。その方法は結局、路上での駐車を安易に認めず、別途地面上に駐車のスペースをつくるか、立体的な構築物として駐車場を整備するということになります。自由経済主義のもとで、そうした無駄とも思えるものを貴重な都心部の土地にいったいだれが供給するのか、また需要との関係でどの程度まで供給できるのかは大問題ですけれども、ここでは触れないでおきましょう。(たとえば違法であろうとなんであろうと、路上の駐車が一定程度のレベルにならなければ、そうした駐車場の本格的な需要は起きないだろうと思われます。)

ここから素直に、自動車のアクセシビリティを増進するために都心部に駐車場を整備しなければならないとなれば、それは短絡といわれても仕方ありません。というのは次のように循環して推移する事態が不可避の因果関係をもって生起することを、簡単な反省によって予想することができるからです。

(1)都心部に駐車場を整備する→(2)都心部に向かう道路はますます混雑する→(3)都心部へ向かう道路を拡幅整備する→(4)都心部の駐車場が不足する→(最初にもどって)(1)都心部に駐車場を整備する‥‥。

これがたんなる予想に終わっていないのは現実の都市を調べれば明らかになるはずですが、もちろんこの関係を現実の都市に無限に展開することはできませんし、といってこれだけ自動車の恩恵に与かっている現状をまえにして、無視するというわけにはいかないのもまた事実です。そこにはおのずと適正なレベルというものがあるはずだというのが常識的な解釈といえましょうが、ではその適正なレベルとはなにによって示されるのか、つまりなにによって適正といえるのかとなると五里霧中というのが現状です。唯一その適正さを判断する材料となっているのが、自由経済のもとでの駐車場の需要と供給の関係です。しかしこれも判断の材料になっているというより、そこを頼るほかに駐車場について考えられないというのがじっさいのところです。

このことは、自動車のアクセシビリティの問題を都市の人間は自然現象としてしか扱えていないということを意味しています。自然現象だというのは、人間はなるようにしかならないという現状にしたがう以外に方法がないということ、言いかえれば、そのとき人間は現実の僕に成り下がっているということです。そうなってしまうのは、自動車のアクセシビリティが都市において確定されるさいに働いている人間の理性を都市の人間はいまだ発見していないからです。

 

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