都市の哲学 田村敏久・著

では歩行そのものに立ち返って、歩行している人間を注目しましょう。歩行が第二の心臓とよばれる足を動かす端的な行為であって、身体の機能を活発にさせる原動力になっていること、また比較的単純な行為と思われる歩行が、じつは解析不可能なほどにシステム化された複雑な全身運動であること、こういった人間の生理学的な見地からの検討はここではおこないません。スペースの関係とともに著者の力量の範囲を越えていることが、そのおもな理由ですけれども、生理学的見地からの歩行についての知見は以下の検討を補強することになるはずです。

そこで、歩行している人間を調べるにあたって、どのような観点から注目するかが、まず問題になります。といっても、これまで検討を重ねてきた私たちにとって、それがむずかしい問題であるわけではありません。つまり人間の存在をささえている場所という、人間と場所の必然的な関係を捉える観点から歩行を調べることが、歩行の意味を明らかにするうえで、もっとも有効かつ重要であるのは論をまたないところです。

歩行の意味を人間と場所の不可避の関係のなかに発見する作業は、歩行にともなって場所が変化するという、一見あたりまえと思われる事実を単純にあたりまえと済まさないところから始まります。人間が歩けば、そのぶん場所は変化します。足を動かせば場所が変化する、だから自分は歩いている、こう理解しているというのが人間の実感にちかいかもしれません。この事実を人間と場所の関係を捉える観点から記述したらどうなるでしょうか。

歩行する人間は、その前提として直立していなければなりません。ひとつの場所に直立する人間は前方を視野におさめ、場所を察知し承認して、そこに存在しています。場所の察知と承認が人間の存在に不可欠であるのは、行為の形態が場所によって規定されるからです。ところで、行為の形態が人間の生きかたを表現する本体にほかならないのですから、それはつまり人間が場所を察知し承認しなければならないのは、人間の存在が場所によって規定されているからだと表現されます。この事態を強調すれば、人間の存在は場所によって明示されているということができます。

人間の存在が場所によって明示されているというのは、地−図の関係でもって説明しますと、場所を地とする図として、はじめて人間の存在がしめされるということです。人間を人間そのものとしてしめすことはできませんし、またそうしたところで意味がありません。人間の存在は、ひとつの場所に存在する人間というかたちで、はじめて表現されます。人間の立場から説明すれば、人間は自分そのものだけで自分の存在をしめすことができるわけではまったくなく、まず自分が存在する場所を発見し、つぎにその場所に存在する自分を発見し、そしてはじめて自分で自分を表示することができます。自分で自分を表示するとは、自己という人間を確立することです。つまり、人間の場所が人間の存在のしかたを説明しているのです。この点を頭にいれて事態の推移をながめていきましょう。

直立した人間が歩きだすと、場所はつぎからつぎへと変化します。場所と人間の関係からの論理的必然として、このとき場所の察知と承認が継続してなされています。私たちの歩行の実態を反省すれば、場所の察知と承認が継続してなされる感触を容易に思い起こすことができるはずです。この場合、場所の承認は歩行という人間にとって基本的な行為を継続するかぎりでのそれですが、歩行からべつの行為へ態勢を変えようとすれば、それ相応の場所を探し承認することが求められる事情も容易に想像されるところです。

場所が変化するから場所の変化に呼応するかたちで場所の察知と承認も継続してなされるという歩行の状況は、より簡明につぎのように表現されす。つまり、場所は人間の存在のしかたを説明するものにほかならないのですから、場所の変化とはすなわち、人間の存在のしかたの変化を指示します。歩行する人間は歩行によってみずからの存在のしかたを変化させているのです。言いかたを変えれば、人間は歩行によって自分で自分の存在を更新しているのであり、またみずからの存在を更新する手だてとして、歩行は他にくらべるもののない行為だということです。

 

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