はじめに
移動経路図 この見聞録は筆者が札幌市役所に勤務していたころ、論文審査に応募して実現した海外研修の報告書である。安サラリーマンにとって約1ヶ月の海外旅行(移動一覧表)は当時としてはめずらしく、したがってこの報告書も一種興奮状態のなかで書かれている。2都市以上の公式訪問が義務づけられ、公式訪問に選んだノーリッジ市とミュンヘン市には事前に質問書を送り、訪問日に担当者より詳細な説明を受け現地を案内していただいた。本文中かなり専門的な内容は訪問都市の担当者より受け取った資料をそのまま抜粋整理したものである。なおデータは当時のもので現在とは違っているかもしれない。
ノーリッジその1
ノーリッジはイギリス南東部のイーストアングリア地方を代表する都市で、イギリスで最初に歩行者道路(自動車の通行を禁止した道路、以下つねにこうした道路を指す)を実現した都市と知られている。この点に関してはすでに日本においても複数の本で紹介されており、また、いわゆるブキャナン・レポートのなかで歴史的都市のモデルケースとして取り扱われていることでも有名である。これらが今回の公式訪問都市として選んだ理由であった。
ノーリッジはヨーロッパへの記念すべき第一歩を印したロンドンから約180km、急行列車で2時間弱のところにある。(ちなみにイギリスに限らずヨーロッパでは急行料金というのはない。一等、二等の区別があるだけで平均時速90km以上のスピードで走る。イギリスの列車はきれいとはいえないが他の国にくらべて乗り心地は最上である。)ロンドンに着いた翌朝、ロンドンの感触を確かめる間もなくホテルのチェックアウトを済ませ、地下鉄を乗り継いでノーリッジ行の列車が出ているリバプール・ストリート駅に向かう。ここで日本で練習してきた英語を駆使してノーリッジまでの片道・二等切符を買い求め、午前9時30分発の汽車に乗り込み、無事午前中にノーリッジに到着することができた。
ノーリッジでは市庁舎やロンドン通りを事前に調査し、翌日の公式訪問に備えた。当日はロンドンから朝一番で駆けつけた通訳の女性と市庁舎のロビーで落ち合い、予定の午前10時に担当のマーシャル・ラッシャー氏の親密な歓迎を受けた。さっそくしつらえてあった会議室へ招かれ、スライドを交えての説明を受け、その後現地を案内していただいた。
ノーリッジはほぼ1200年前に築かれた有数の美しい歴史都市であり、平坦な農業地帯であるイースト・アングリア地方では最大の都市である。人口は約17万人、商圏人口は約35万人、市域面積は約3,900haの現況となっている。11世紀にはイギリス最大の町のひとつになったこともあり、中世には宗教上の要所となった。今日、ノーリッジには広範な工業・商業活動がみられ、主な産業として靴製造、建築、飲食品生産、工芸、印刷、商業、銀行業、保険業などがあげられる。
ノーリッジの歩行者道路はかなり古くからその成立をみている。都心部で最も古いものは1807年に実現しており、それに続き1800年代に5ヶ所余りで行われている。1898年に建設されたロイヤル・アーケード(fig.01) fig.01は規模はさして大きいとはいえないが、空間の質という面からは、たとえばミラノのガレリアと比較しても劣らない。こうしたなかで1969年に歩行者道路として実現したロンドン通りが注目されたのは、それがノーリッジで最大規模の歩行者道路であることと同時に、車社会への移行という歩行者道路の成立からみた場合の悪条件のなかで、それがどのように必要とされ、どのように実現し、どのように評価されたかということが重要な意味をもってきたからであろう。
ノーリッジの中心部に位置するロンドン通り(fig.02) fig.02は高級専門店を中心に有数の商店が並んでおり、ノーリッジの都市景観上、重要な地位を占めている。1960年代に入りノーリッジも西ヨーロッパの諸都市の例にもれず、自動車と歩行者間の競合を経験することになった。特にロンドン通りは交通混雑が最もひどく、狭い歩道は歩行者にとって非常に危険になると同時に騒音や悪臭も耐えがたいほどになった。このため市議会はロンドン通りの歩行者専用化を目指し、その実現にあたっては事前に関係者との協議を進めるとともに、一定期間、実験的に自動車の進入を禁止して結果を十分調査し、評価を行ってのちに恒久的な計画へ移行するという方法をとった。
商店経営者はこの計画に対して好意的であった。それは、以前に下水道管修理のため道路が閉鎖された際、わずかではあったが売り上げが増加し、買物の場として環境が向上したことを経験していたからであった。裏通りからアクセスできる商店はわずか3店だけであったが、サービスアクセス上一番問題になったのは、通りに面している5つの銀行が現金の輸送スケジュールを拘束しないよう要求したため、サービス時間を限定することができないことであった。これについては銀行側も時間制限による歩行者道路の運営について理解を示し、現金の輸送方法を変更するなど可能な調整を行い、またこれにそって計画の一部を変更することにより解決をみた。事前に協議した団体は9つにのぼる。
ノーリッジその2
こうして事前協議を済ませ、いよいよ1967年7月17日から結局6ヶ月にわたる実験計画が実行に移された。この実験から次のことが明らかになった。自動車締め出しの前と後の比較可能な日の調査から、土曜日における9時〜18時の歩行者交通量は25,154人から36,493人へと約45%の増加を示した(fig.03)。 fig.03金・土曜日の2日間にわたって歩行者にインタビューを試みたところ、「車のないこの通りが好きですか」という問いに対し92%が、「この通りから恒久的に車を排除するほうがいいですか」に対しては86%が、「他の通りも歩行者道路にするほうがいいですか」に対しては79%が、それぞれ「イエス」と答えた。
道路閉鎖による自動車交通への影響は、実験当初の2・3日間に若干の交通渋滞がみられたが、その後これらの車両は広範な地域にわたって他のルートを選択し市内全体の交通網に吸収されていった。交通量調査によると、ロンドン通りから移動した交通量の60%は周辺地域に姿を現わすことなく、ロンドン通りに隣接する道路でも交通量はわずか20%増加したにすぎなかった。自動車を所有または利用する人にロンドン通りの閉鎖によって不便になったかどうかインタビューしたところ、全体の79%が不便を感じないと回答した。ドライバーの団体である自動車連盟も、都心通過交通に及ぼす影響や計画に対する反応を調べるため、ノーリッジ市内の会員を対象に無作為抽出による調査を行った。その結果、自動車の移動に及ぼす影響は無視できる程度のものであることが判明した。さらにこの調査によれば面接者の51%はこの計画を続行すべきと考え、41%はこの計画を中心街に拡大すべきだと考えている。計画に否定的な態度を示したものはわずか4%にすぎない。
サービスの方法については、閉鎖されたロンドン通りでは短い距離ではあるが商品を店まで手押し車で運ぶことになり、運転手は異議を唱えるだろうと協議の段階において一部で考えられたが、実行してみるとサービス専用に指定した道路からは私用の交通が排除され、配達に必要な駐車スペースを探すのがむずかしくなるかもしれないという予想は杞憂に終わった。結果として、実験期間の最後まで、配達人によって異議が唱えられたことはなかった。
ロンドン通りには32の店舗があり、このうち30の商店主が実験期間中の売上げに及ぼす影響について回答を寄せている。これによると28店舗では5〜20%の範囲で売上げが増え、2店で5%以下ではあるが減少している。この結果から、種々の要因を考慮に入れたときの歩行者道路化による売上げの増加率は4〜5%とみられている。
実験期間中におけるロンドン通りの環境の改善はドラマチックでさえあった。静けさがもたらされ、清潔になり、小さな子供連れの婦人の買物客にとって状態は大いに改善され、増加しつづける自動車交通のために出歩くことを思い止まっていた高齢の客がもどってきた。買物客はゆったりとショーウインドウをのぞきこむことができるので、衝動買いが増えた店もある。
こうしてロンドン通リの歩行者道路化のメリットが確認され、恒久的な計画が実行に移された。そこでは舗装の全面的な改造を行うとともにショーケース、椅子、樹木、街灯などが注意深く配置されている。これとは別に、通りに面するすべての建物に対して外観美化計画が始められた。色彩の扱い方、看板のデザイン、レタリングスタイルについて諮問委員会によって示された計画が地元の組織であるロンドン通り委員会によって受け入れられ、会員は改装を行うときにはこの計画に従うよう義務づけられている。建物は3年ごとに外壁を改装しなければならず、毎年3分の1の建物がペンキを塗り替えられ、これによって通りは絶えず統一のある新鮮な外観を保っている。
ロンドン通りの成功につづき、さらに3本の道路が車を締め出した。そのひとつロワーゴート・レーン(fig.04) fig.04は全面歩行者用の舗装に変わり景観が改良された。他のふたつ、ダブ通りとホワイト・ライオン通りは時間を制限して車の通行を認めている。ノーリッジ都心部の道路交通を制限する作業は今後も内部環状道路の建設、及びループ道路と駐車場の管理と並行して続けられる予定であり、最終的には都心の商業地域は自動車交通から解放され、大聖堂を中心とする歴史的地域に流入する車両も地域内に用事のあるものだけに制限されることになる。この究極の目的は、外部の居間とも呼ぶべき空間——買物やその他の活動が魅力的で平穏な状態のなかで行われる場——をつくることにある、と計画書はうたっている。
ノーリッジ中心部の将来的な交通計画の原理は内部環状道路とループ道路であり(fig.05) fig.05、ヨーロッパ諸都市でよく見られるものである。自家用車はループ道路に閉じこめられ最寄りの駐車場に導かれる。自家用車の使用制限にともない、人を引きつける代替手段として有効な公共輸送システムが用意されなければならない。その有効性を促進するために、公共輸送機関は指定された道路を使って環状道路の内部を横断することが許され、こうして自家用車に優る重要な利点が与えられることになる。ふたつの歩行者地区——買物地区と大聖堂周辺の歴史地区——が中心部に設定されている。歴史地域への車の進入制限と、一定時間内の中心部の買物道路からの漸進的な車の排除によって観光や買物のためにより魅力的な状態が徐々につくり出されていくだろう。この歩行者地区創出へのプロセスの最初のものが、ロンドン通りの歩行者道路への転換である。
ノーリッジその3
ノーリッジの目立った特性はその歴史的な市街地にある。市街地には30を越す中世の教会をはじめとして、ノルマン様式の大聖堂(fig.06) fig.06、20世紀のローマ・カトリック大聖堂、ノルマン様式の城、そして850の歴史的な興味をそそる建物がある。この数世紀の間に建てられた低層の建物からなる街路景観は、今日の都市には決して見ることのできないユニークなタウン・スケープをつくり出している。市議会は以前からこのユニークな遺産について十分気づいており、特に市中心部の開発や土地利用、またリストアップされている建物の修復を確実にコントロールできるよう、市中心部の土地や建物を取得できる可能性のある機会をすべて捕らえてきた。リストアップされた建物の取得と修復は、市当局のたゆまぬ断固とした努力のたまものである。その最も早期の例が1927年のエルム・ヒル(fig.07)であり、解体を免れた。 fig.071967年のシビック・アメニティ法が通過するまでは、歴史的な町や市を保存する方法は歴史的な建物を保存することに限られていた。個々の建物に重点を置くやり方は、建物の置かれている周囲の状況の重要性を考慮に入れることを欠いていたため、結果としてそれらの性格にまったく不適切な新しい環境のもとに保存されるということがしばしば起きた。1967年のシビック・アメニティ法によって地方の行政主体は保存地区を指定し、その地区の性格や外観を高めることに特別の注意を払うことが求められた。この法律によってノーリッジでは1970年に7つの保存地区が指定された。
こうした建物の取得・修復等には多額の費用を必要とする。市は毎年かなりの投資を行っているものの限度があり、このため歴史的地区の品位を高めようとする民間の投資意欲をかきたてることが望まれた。市と民間企業の財政上のギャップの橋渡しとなることを目的に1967年にノーリッジ保存トラストが設立された。これは市と地方のアメニティ団体であるノーリッジ・ソサエティ(歴史的建物を売り出したり貸し出す前に、それらを買い上げ修復することを職務としている)との財政上の共同体である。有益な仕事がノーリッジ保存トラストによってなされている。
歴史的建物の保存と並行して、市街地内の新たな住宅供給とスラムクリアランスによる再活性化が積極的に企てられている。市街地内の住宅供給は高地価により費用がかさむが、昼夜をとおして生活をつくり出すことにより市街地の性格を改善し、市街地周辺からの買物や楽しみの要求を減らし、もって交通混雑の緩和に貢献するという利益をもたらす。この最も良い例がコルゲート地区の再開発である(fig.08) fig.08。コルゲートにあったいくつかの工場が郊外に移転したため再開発用地として利用できることになり、その第一段階として40戸の新しい住宅の供給と川岸の景観の改善を目的とする再開発が市と民間建築会社とのJVにより行われ、以前の材木置場の景観は一変した。
ノーリッジには今世紀に入る変わり目に粗末に建てられた約13,000戸のテラス・ハウスがあり、これがスラム化してきている。古い住宅地区を衰退から救うため、こうした標準以下の家の所有者に対して、市は改善交付金を申し込むよう積極的に働きかけている。古い住宅地区は自動車交通の出現以前に高密度に建てられており、このため例えばオープン・スペースや子供の遊び場や駐車場の不足に悩んでいる。また、しばしば不適切な商業・工業施設と混在したり、近道をしようとする自動車によって地区内道路が利用され結果として騒音と危険が増大するといった困った問題が起こっている。1969年の住宅法はこうした問題にたいして、住宅の改善と並行して環境の改善を進めることにより解決を図ることとし、いったん一般改善地区に指定されると、その地区内の家屋数に比例して環境改善のための資金が用意されることになった。すでにかなりの地区が一般改善地区に指定され、そこでは住民参加が大きな要素になっている。それぞれの一般改善地区に住民協議会が組織され、市と住民のつなぎ役の機能をはたしている。地区改善計画は質問表により得られた住民の要求に基づいて作られる。できあがった計画は、住民の賛同を得るため、計画着手の前に住民の手に戻される。こうした計画の代表的なものがアーリングトン計画であり、面積30ha、区域内家屋1,500戸という大規模な計画が進行している。
ノーリッジ市は既存の古い建物の取扱に心遣いをしていると同時に、新規の開発にたいしても独自の方法で規制を行っている。建ぺい率、容積率、高さ制限などの硬直した基準では、建築家ばかりでなく関係者すべてに建物の設計の自由を禁じることになり、新開発用の敷地はしばしば形状が複雑であったり、残存する建物に閉じこめられるようなことがあるノーリッジにおいては、市の特性や本質にそって開発がなされるならば、その規制は柔軟であることが求められる。このためそれぞれの規制の適用にあたっては、その位置や周囲の建物を視野に入れながら敷地の特殊性に関連したメリットを注意深く考慮して行われる。この面で大いに役立っているのは市街地の模型である。市の計画局には500分の1の木製の市街地模型があり、新しい建物の計画が提出されるとさっそく模型がつくられ、計画の規模や既存の都市景観に与える影響を評価するために市街地模型のなかに置かれる。ここで登場するのがモデルスコープという光学機器で、これを使うと歩行者の目の高さで見た場合の視界が得られる。市庁舎地下に置かれている市街地模型を実際にモデルスコープ(fig.09) fig.09でのぞかせてもらったが、これは新鮮な驚きであった。ある街路の景観をかなりの正確さで体験できるのである。この方法はまったく正しいし、またこの方法なくして都市景観の形成もありえないと思われる。最近になって都市景観が問題になり始めたわが国の都市にとって、まさに未来的なやり方であり、多くの示唆に富んでいる。
ミュンヘンその1
ミュンヘン市を公式訪問したのは8月9日の午前9時であった。当初11日を予定してその旨ミュンヘン市へ連絡してあったのが、日本を出発する直前になって9日に来るようにとの返事が届いたため、その前の日程はかなりきびしいものとなった。アムステルダムから夜行列車に乗りミュンヘンに到着したのは当日の午前7時半過ぎ。急いで予約しておいた駅前のホテルにすべり込み、支度をして指定された市の分庁舎に向かう。こういうときにはヨーロッパの道路はありがたい。すべての道路に名前が付けられ、その標示板がいたるところにある。番地の配列も道路の右側が偶数番地であれば左側はすべて奇数番地という具合になっていて、普通の地図があれば、まず間違えずに目的地に着ける。市の分庁舎へは約束の9時前に到着、指定された番号の部屋を訪れ、担当のアルフレッド・シェルツァー氏、通訳のノーマン・千恵子氏の歓迎を受けた。さっそく会議室へ招かれ、スライドをまじえながらの説明を受けた。その後、現地を案内していただいた。
ミュンヘンはバイエルン地方の州都であり、文化的・芸術的遺産が豊富め、しばしばドイツの隠れたる首都と呼ばれる。人口は約130万人、その数はベルリン、ハンブルグに次ぐ。市は12世紀はじめに創設され、ミュンヘンの名前はそれ以前に建てられていた修道院に由来する。主な産業は、光学機械、精密機械、一般機械、ビールなどで、大学と美術館でも有名である。第2次世界大戦で大きく破壊され、中世・ルネサンス期の建築物は中心部に残っているものの、爆撃の痕跡はいたるところで見られる。戦後、ドイツ経済が回復するにつれて復興が進み、人口は年4万人の割合で増加した。しかし最近、市内の人口は年に3万人の割合で減少している。この急激な減少は、市中心部の住宅不足と共に、広域鉄道網の完成による人口の拡散化が原因と考えられている。こうした市内の商業・業務地区への特化傾向は危険なものとみなされ、建築許可の拒否等により、商業・業務施設の拡大の抑制が図られている。
ヨーロッパの都市の大多数は、その中心部に偉大な歴史を持っている。そこはもともと非常にコンパクトにつくられて、見る価値のあるものが数珠つなぎになっており、このため都市の古くからある部分は歩いて探索したり観賞するのに特に適している。ところが自動車交通の発展に顕著にみられる近代化の波がこれらの都市におしよせた。ミュンヘンにおいても市街地の伝統的な街並は再三にわたって近代的な交通事情に合うよう調節されてきた。自動車のための空間をつくろうとするすべての試みは単にそのような空間の更なる需要を生み出すだけだということが理解されるまで、そして街の物的な構造に改造を強いることは何世紀にもわたってつくられてきた街の独特な美しさを、まさに不可避的に破壊するということが理解されるまで、近代的な交通事情に合わせた調節が続けらてきたのである。こうしたなか、市街地の再活性化の新しい方法が1963年の市街地開発計画のなかに取り入れられた。
特別な調査が続けられ、それをもとに1965年にイェンゼン教授の報告書が作成された。報告書は、都心部のカウフィンガー/ノイハウザー通りとヴァイン/テアティナー通りは主として歩行者に依存しており、通過交通や通勤・業務の交通は単なる迷惑以上のものになっていると指摘した。1966年のはじめ、市議会はミュンヘンの旧市街地に歩行者道路を建設することを決めた。この計画は交通処理上、以下の2点を前提条件とした。
すべての交通機関のルートの再編成のみならず、地下大量交通機関の建設
周辺地域の交通システムと一体となる、旧市街地をめぐる環状道路の建設
1967年、ミュンヘン市は歩行者モールの最良案を得るために建築・美術上の競技設計を実施することを発表した。応募はすべての建築家、景観・庭園デザイナー、画家、彫刻家に開放された。この目的とするところは、何世紀にもわたって成長してきた都市の魅力的な外観を、歩行者モールをして可能な限り親密に伝えさせることであり、こうして長い文化的な遺産を引き継いだ古い都市であるミュンヘン市内部の性格や外観が明らかにされるはずであった。この設計案は他の多くの事業と同様、1972年のミュンヘン・オリンピックまでに実現されることになっていた。競技設計の2人の入賞者に基本設計の仕事が割り当てられた。
競技設計の結果が発表されると、多くの市民は計画の実施に積極的な興味をしめした。地方新聞までが入賞案について読者に投票させた。1969年末に計画が正式に承認されると、基本的な概念と細部についての考え方が市民を大いに納得させるものであったので、その後の実施設計と施工は圧倒的な共感をもって迎えられた。
ミュンヘンその2
1972年、ミュンヘン最初の歩行者モールが、古い城門である西側のカール門と再建された東側の市庁舎門との間につくられた(fig.10)。街路の端から端まで、歩いたり座ったりする空間に生まれ変わり、それは枝の街路にも延ばされた。 fig.10地下鉄が歩行者道路化されたノイハウザー/カウフインガー通りの下に敷設され、歩行者モールのなかの最大のふくらみであるマリエン広場の下でもう一本の地下鉄と交差する。マイリエン広場はもともと二本の重要な道路の交点にできた市場であって、市の最初の中心地であったが、1972年になって再び市の中心としての地位を獲得することになった。環状道路は通過交通を吸収しながら旧市街地へのアクセスを用意し、交通を分散させる機能を果たしている。環状道路内部の事業者に対する配達はセルシステムによって行われる。横丁や裏通りからアクセスできない店舗やデパートは、時間制限により歩行者ゾーンを使ってサービスを行っている。
こうして通りは単に輸送の目的のためにあるのではなく、むしろぶらぶらするための場所になっている。市の計画に従って、以前からあるアーケードや覆いのある街路は保持されなければならない。それはミュンヘンの典型である。中世のポルティコは現代的なアーケードと一体となって買物を楽しいものにしている。
通りの平均幅員は20mもあり、これだけの空間を歩行者でにぎわすことができるかどうか疑問視する向きもあったが、実現してみると、カウフインガー/ノイハウザー通りの歩行者数は、完成以前の72,000人(1966年のある日の午前7時から午後7時までに計測された歩行者数 )から120,000人(1972年6月7日に計測された12時間の歩行者数 )へと、大幅な伸びを示した。
ミュンヘンの歩行者モールは買物広場としての性格を備えているが、単にそれだけではない。135の商店とデパートによって示される多様性は実際、十分に魅力的であるけれども、歩行者空間はそれ以上のことを意味している。そこには数多くの重要な建築物、噴水やレストランやカフェや映画館、そして劇場と博物館が含まれる。歴史的な建物が、まさにネックレースの真珠のように連続して軒を並べ、訪れる人を引きつけ魅惑しているのだ。これらの建物は夜間にはライトアップされる。7つの噴水は大都会の夏のオアシスとなっている。
歩行者モール内部に余暇のための区域をつくろうという考えが19の食べ物屋から提起され、1,200以上の席が青空の下に用意された。こうして商店やデパートが閉店したあとの夕方もモールは生き生きとしている。座るためのスペースは300個の積み重ね可能な六角形のコンクリート製の植木鉢を組み合わせることによってつくりだされる。樹木は数ケ所の場所に植えられ、プラタナス、クリ、カエデが広場を縁取っている。合計340の街灯——それぞれ2つのガラスの球体をもつ——は通りの端から端まで光の鎖を形成している。特別の場合のために、この色彩豊かな光景は旗を立てることによって強められる。舗装面は建物から通りの中心に向かって傾斜しており、排水溝が小さい不整形の石で出来た細長い部分に設置されている。
ミュンヘンの市民は、新たな行動の自由やきれいな空気、そして一日の最も忙しい時でさえ平安で黙想にふける雰囲気があるのを楽しんでいる。都市の共同体は今一度、その空間的な中心を手に入れたのだ。「ちょっと何か見たい」、「調子の変化や気持ちのいい気晴らしがないか」、「議論の輪に入ってみたい」、そんなことを思う人はだれもがここにやって来る。たくさんの老人が花の海に満足げに座り、そして毎日何千人という俳優でいっぱいのステージで演じられる多彩な生活の形態を明らかに楽しんでながめている。人は不思議に思うだろう。こんなことが本当にありえたのだろうかと。
ミュンヘンの表情、特に市街地の表情はこの数年間に根本的な変化を見せている。ミュンヘン独自の表情は永遠に失われてしまったと考えた人もいたが、歩行者道路が実現してみると、変化がその独自性を減じさせることなく生じたのである。ミュンヘンの市街地に対する歩行者空間の価値については、すべての市民は同じ意見である。
イタリアの街路その1
2つの都市の公式訪問とともに、イタリアの街路をこの目で確かめることは今回の旅程の大きな目的であった。イタリア各地の街路については、バーナード・ルドフスキー『人間のための街路』や芦原義信『街並の美学』のなかで、人間の生活とのかかわりにおけるその注目すべき機能と空間の特質について、かなりくわしく述べられている。これらの書物から得られたイタリアの街路の光景は私の心に住みつき、だんだん大きなものになっていった。今回、限られた時間ではあったが、それを現実として体験し、それが想像以上に奥深いものであることがわかったことは、私の心に大きな痕跡を残した。これは生涯消えることはないだろう。
訪れた都市は、ミラノ、ボローニャ、ベネチア、マルティーナ・フランカ、ロコロトンドである。以下にそれぞれの都市で受けた印象を記したいと思う。(以下の記述内容は、ルドフスキー『人間のための街路』ならびにイギリス政府発行『都市の自動車交通』に、その多くを負っている。)
《ミラノ》
ミラノはイタリア第二の都市であり、人口がもっとも稠密であり、商業活動の要所になっている。巨大な「ドゥオモ」(大聖堂)やオペラの殿堂であるスカラ座とともに、ミラノの名を高めているのは、覆い付き街路「ガレリア・ヴィットリオ・エマヌエル」(fig.11) fig.11だろう。これは公開のコンペによって設計され、1867年に完成したアーケードで、企画の段階から全ヨーロッパの注目を集め、落成式にはイタリア国王も列席している。ミラノのガレリアは、そのスケールと質の高さで見る者を圧倒する。モザイク模様の舗装、統一のある豪華な壁面、球体と円筒を組みあわせたガラス張りの屋根、これらが見事に調和して完璧ともいえる空間をつくりだしている。二本の覆い付き街路——片方は200m、もう片方は100mの長さ——が十字架の形で交差し、屋根の高さは27mもある。ルドフスキーによれば、この大きさに匹敵するものは古代に遡らなければ見当たらないという。完成後100年以上ものあいだ、ガレリアはミラノ市民にとって広場であり広間であり続けている。
《ボローニャ》
ヨーロッパ最古の大学都市として知られているボローニャは、ローマよりもはるかに古い歴史がある。この都市の印象を決定づけているのは、ピロティの形態をした回廊、イタリア語でいうポルティコ(fig.12)である。 fig.12中央の広場から放射状に伸びている街路のいたるところにあり、そこをのんびり歩くと催眠術にかかったような幻想味を感じさせ、平和と永遠がここにあるとなぜか納得させられる。ポルティコの隆盛には、もちろん歴史的な事情がある。
ボローニャは12世紀にヨーロッパで最初に大学が創立されるまでは目立った存在ではなかった。大学は土地も建物も所有していなかったので、教授たちは授業を自分の家や貸家で行っていた。このため街路は移動大学のための廊下の役割も果たしていた。13世紀になると、学生数は1万人近くになり、街の長老は市民にたいして歩行者のために連続的な屋根をもった通路、つまりポルティコをすべての建物に備えつけること、そしてその維持費は各自が負担することを義務づけた。功利的な社会では受け入れがたいと思われるこの命令に市民は異議を唱えることなく従い、その7世紀にわたる積み重ねが今日のボローニャなのだ。ルドフスキーによれば「ポルティコはひとつの偉大な文化的施設である。」
街の広間としての社会的機能のほかに、ポルティコの実際的な役割は雨や日光をさえぎることにある。北国との比較において注目すべきことは、ボローニャはアスペン山脈に近いため、冬季には2階まで積もるほどの雪をともなう大吹雪に見舞われることがあり、こんな時にもポルティコが神の恵みになっていることだ。
《ヴェネツィア》
ヴェネツィアは現代の都市のなかで、市街地の道路上にいっさいの自動車が存在しない点において、まさに驚異的な存在である。1,200年前、北方の蛮族の侵入から守るためのラグナ・ベネタ内の一群の島々に造られた都市で、現在の人口は約14万人である。道路と鉄道が一体になった路線によって本土のメストレと結ばれ、メストレにはかなり大きな工業化された後背地があり、そこにヴェネツィアの多くの住民たちが職を得ている。通勤者、訪問者、供給物は道路や鉄道を使ってヴェネツィアに発着しているわけであるが、自動車用の道路も鉄道も、この島にあるターミナルまで厳密に制限されている。そこから先の人や物の動きは歩行者専用の道路と運河上の汽船によって処理される。主要交通幹線はカナル・グランデ(大運河)であり、そこで水上バス交通が行われている。カナル・グランデは地区全体に均等にサービスできるよう逆S字形になっており、そこから大小様々な運河が枝を広げ、全体が緊密なネットワークを構成している。地上にはこうした乗り物交通と完全に分離した歩道と路地の系統があり、いたるところで広場につながっている(fig.13)。 fig.13広場は地域の集会、礼拝、市場、さらには買物の主要な場所になっている。この小道と広場のネットワークはわれわれの想像をはるかに越えている——天国と地獄ぐらいの差をもって——。実際、ヴェネツィアは歩車道分離のシステムと居住環境の貴重な、また非常に興味深い実例であって、その重要な教訓は、都市において乗り物と歩行者の相互依存体系がそのふたつの完全な分離によって存在することが可能であり、またその居住環境にもたらす効果が絶大だということである。
イタリアの街路その2
fig.14 長靴の形をしたイタリア半島のかかとの部分にあたるアプリア地方に、人口約4万の静かな町、マルティーナ・フランカがある。日本人がかつて経験したことのない、まるで夢の世界とも思われるマルティーナ——住民たちはこの町を略してこう呼ぶという——の街路(fig.14)を歩くこと、これは私にとって最大の望みであった。この町で受けた感銘の深さを表現する言葉が見当たらない。マルティーナ・フランカとそのすぐ近くにあるロコロトンドについて、駄文を弄するより、未来への啓蒙の書であるバーナード・ルドフスキーの『人間のための街路』から引用することにしたい。
(曲がりくねった街路の良さを示した他人の文章を引用したあとで)
白い象のような町マルティーナには、こうした必要をすべて満たしている。そして平面図が言葉よりずっと明確にこの町の構成を示している。そんな町がもしあるとするならば、この町は“非計画的”な町といったところだ。その街路の伸び方は、まるで稲妻の光跡のようである。分岐していると言っても、くねっていると言っても、あるいはジグザグしていると言っても、この街路の性質を十分言い表したことにはならない。そのすべてに該当し、なおそれ以上である。街路の幅は絶えず変化し、そして街路をはさむ建物のラインが平行なことはめったにない。家々は古い舞台の袖のように突き出ている。実際に、足を動かすたびに舞台との比較が心に浮かんでくるのだ——ブロードウェイの舞台ではなく、初期ルネッサンスの劇場の“巧妙にそして楽しくつくられた本当の舞台”との比較が。こうした街路が古風で風変わりに思われるのは、街路を交通道路たらしめるようなガラクタが何もないからだ。街灯、交通信号、駐車禁止の標識やパーキングメータ、ゴミの缶、そしていたる所に散らかっているゴミなどといったものが。この町は、ちょうどひとつの建物の全体なのだ。スラムもなければ貧民街もない。バロック様式の邸宅や大邸宅、教会や修道院などが、質素だが品のある小さな家々の間にむらなく散らばっている。凝った石造りの入り口や石の窓枠や鉄製のバルコニーなどが、あたかも美術館の壁に掛けられたたくさんの展示物にように、建物の壁の白い背景から突き出ている。なかには600年も経つ家もあるが、それでも最近建てられたものよりもむしろ立派なぐらいだ。壊れたままの家はひとつもない。これらの家々は、皆ほとんど同じ高さで——3階以上の建物はない——屋上から路上に話しかけるのに都合がよい。親密な長話しのときには街路に椅子が持ち出される。歩道の必要はまったくない。古い、しかも壊れそうにもないしっかりとした板石のペイヴメントが、家々の玄関や廊下にまで入り込んでいるのだ。そして染みひとつないほど清潔に保たれている。
マルティーナ・フランカから北へ約5.6kmの丘の上に、アプリアのもうひとつの白い迷宮ロコロトンドがある。この町の名前は“円形の場所”を意味し、いまでもこの町には幾分その円さが残っている。遠くから見ると石のメリーゴーランドのようだ。町の周囲を取りまく街路——それは立派な伝統をもつ見晴し台である——を境に家並みはぷっつりと途切れる。胸の高さに巡らされた街路の側壁の向こうには平原へと続く段々畑で、春にはアーモンドの白い花が咲き乱れる。そして平原の向こうにはアドリア海が広がっている。畑から数分の町のなかの街路は、マルティーナの街路と同じような状態だ。子供たちの安息所であり、拷問台も絞首台もない遊び場である。
ルドフスキーは清潔さの維持について「しかしこの先いつまでこうした状態が保たれるかは誰もわからない。都市を清潔に保つという千年来の伝統も、いつ現代生活のせちがらさに負けてしまうかもしれないのだから。」と一抹の危惧を述べているが、私の観察したところでは、ルドフスキーが経験した時と同じぐらいに清潔さが保たれているように思えた。なにせたった数時間の滞在中に、壁の塗り替えの現場にも立ち会ったし、舗装の石を水で洗っている現場も目撃したのだから。しかし注目すべきは、こうした街路にバイクや自動車が進入していることである。おそらく自動車を所有した住民が自分の車を家のそばに置いているのだろう。ルドフスキーの記述にはこうしたことがないから、車の進入はこの10年間に起こったことと思われる。今後どうなっていくのか、興味のあるところだ。
ここに住んでいる人々の人懐っこさも忘れられない思い出になっている。ロコロトンドでは2軒の家に呼ばれコーヒーやビールをご馳走になった。招待してくれたのは、もちろんまったく未知のひとであり、路上で合っただけである。現代のわれわれが失ってしまったこうした人懐っこさは、この地の街路空間と決して無関係ではあり得ないだろう。
しかしこの卵型をした町の古い部分を一歩出ると、いわゆる現代風の建物が整然と並び、まるで表情がない。ルドフスキーに言わせると“現代的陳腐性”とも名付けうるものだ。町の古い部分は現代を写す鏡のようであり、現代を告発しているように思えたのである。
まとめにかえて
以下においては、1〜7で述べた各都市の状況に、その他の都市での観察を交え、今回の旅行で得られた歩行者空間の問題を私なりにまとめてみたい。
〈成立の過程〉
今回の旅行で訪問した都市のうち、ロンドンとパリといった大都市を除くすべての都市に何らかの歩行者空間(ここでは空間の規模と質からみて積極的に評価できる歩行者道路を指す言葉として使っている)を発見することができた。そのなかのいくつかはすでに日本にも紹介されているが、ローザンヌやフランクフルトのように日本ではまだ知られていない都市にとびっきり上等なのがあった。このようにヨーロッパの都市では市街地の中心部に歩行者空間をつくり出すことが当然のこととなっており、都市運営のなかで重要な役割を占めているといっていいと思う。
こうした歩行者空間の成立の過程については日本においても数冊の本にくわしいが、今回の公式訪問によってノーリッジとミュンヘンについてさらにくわしく知ることができた。両市で明らかなのは、車交通への迎合によってもたらされた結果がひどくなってから歩行者空間の創出へ向かっているわけで、したがってその転換にはかなりの苦労をしていること、そして出来上がった歩行者空間は単に車交通からの保護以上のものになっているということだ。このことから次のように言うことができだろう。都市にあって、自動車の影響はたいしたことはないからといって、歩行者空間の創出への努力を怠ることは、怠惰と言われてもしょうがない。
歩行者空間を支える交通システムは両者とも環状道路とループ道路からなるいわゆるセルシステムである(fig.15)。 fig.15しかしセルシステムと一言でいっても、そのスケールや道路構成はまったく違うし、しかも市街地のほとんどが堅い建物で出来ているから道路の新設は考えられず、両者ともセルシステムの適用にあたってはきめ細かな対応をおこなっている。これらに比べて札幌の都心部は格子状の均一な道路パターンを示しており、また今後の再開発が大いに考えられる場所もあることから、成立条件としては恵まれているといえよう。
さらに、当然のことながら、住民の参加が成立条件として必須であることである。
〈空間の質〉
歩行者空間の考える場合、なにゆえに空間の質が問題となるかである。あえてここで言えば、例えば次にように考えることができる。体育館でも講堂でもいい、だれもいないそうした広い空間に子供をひとり入れて、その子供に勉強するように言ってもできるかどうか。明らかに勉強するには不適切な雰囲気であって、広い空間の中で子供は落ち着きを失い、勉強に手がつかないであろう。まさにこういう意味において空間の質が問題になるのであり、すなわち空間が人間の行動を規定するのである。高名な建築家の言葉を借りると、「空間は生活である」ということができる。
fig.16 歩行者空間の質をいう場合には、床である舗装面、壁である建物の外観、天井としての天空の形状と高さを決定する建物のスカイライン、そしてこれらが三位一体となってつくり出される空間のボリュームと形態に注目する必要がある。
床がアスファルトのままの通り(アムステルダム、ニューウェン通り)(fig.16)があったが、これは空間のグレードを非常に低めている。ここでのゴミや悪臭も床の仕上げと無関係ではないと思われる。床の仕上げはコンクリートスラブなどの安直なものが多いが、そのなかにあって小石を敷きつめたブール通り(ローザンヌ)(fig.17) fig.17や、小石やその他の材料を使ってグリッド状の模様に仕上げたツァイル通り(フランクフルト)(fig.18) fig.18が異彩を放っており、空間を引き締めている。
今回観察したなかで住宅地区内の目立った例として、デルフトのボンネルフ(オランダ語で「生活の庭」を意味する)があげられる(fig.19)。ボンネルフは人車混合による共存を目指した方法で、その後の日本におけるコミュニティ道路等に大きな影響を与えた。人と車が街路を共有し、かつ共存することを目指して、路面の高さの微妙な変化とか、車止めの設置など、路面上に細かな仕掛けが施されるが、このためかえって空間の特性を弱める結果になっているように思われた。 fig.19ボンネルフ成立のオランダの事情——古い建物を改造して駐車場をつくることが不可能に近く、昔から路上駐車が公認されている——を考慮に入れると、ボンネルフスタイルを金科玉条とするわが国の風潮は大いに疑問と言わなければならない。
建物の外観については各通りとも様々な工夫がみられる。このなかにあって、ロンドン通り(ノーリッジ)の歴史的な意匠の統一とそのメンテナンス、ノイハウザー/カウフンガー通り(ミュンヘン)での新旧の建物のバランスが特に印象深い。スカイラインの統一を否定する材料は、今回の観察で発見できなかった。すなわち、スカイラインを統一することは空間の質を考えるときに必要な条件であるということである。
特に札幌との比較において決定的なのは道路が屈曲していることによる空間のイメージの相違である。道路が曲がっていることの効果は、路上での視野を考えたとき、通りの片方の建物の正面がよく見えること、またこれに関連して、通りの方向を見たときに空間の閉鎖性を認知できることにある。まさに何かが見えることによってわれわれは空間を認識できるのであって、このような効果は全くもって貴重であると言わねばならない。屈曲した通りが人を包み込む暖かい空間になっているのは、これによるところ大である。それに対して直線状の通りは冷たい空間となる。札幌のような、ほとんど直線ばかりの道路しかない都市ではなかなか気づかないことではあるが、今後こうした都市においてどのように暖かい街路空間をつくっていくのか、大きな課題といえよう。
〈機能〉
今回観察した歩行者道路は、ほとんどがいわゆるショッピング・ストリートとしての機能をその主なものとしている。しかしフランクフルトでは大規模な買物通りとは別に歴史的保存地区内に歩行者道路と広場をもっているし、ノーリッジにおいては将来計画ではあるが、歩行者ゾーンを買物地区と歴史地区に明確に分けている。
歩行者道路で何が行われていたか。もちろん歩くことが行われていたわけで、これも大英百科事典にならっていえば人類の最も尊ぶべき移動の方法であるわけである。そのほか、歩行者道路は建物や彫刻を鑑賞する場所であり、レストランであり、音楽やダンスが演じられrる劇場でさえもある。観光地としての性格が弱まると、子供の遊び場や近所付き合いの場のような、日常の生活空間としての意味がでてくる。こうしたひとつひとつを挙げても歩行者道路の説明としては不十分であり、結局は「街路は都市の部屋であり、豊かな土壌であり、養育の場である」というルドフスキーの言い方に還元されてしまう。
おわりに
1982年のヨーロッパの夏は大変な暑さであった。最初のイギリスでさえ、旅行案内書には日本より10℃も低くセーターを忘れずにとあったのに、すでに30℃を越えていた。イタリアにいたっては連日35℃から36℃もあった。スイスに入って一息ついたものの、この暑さと初の海外旅行ということもあって非常に疲れ、時間を100%有効に使ったとはいいかねる状況であった。
こうしたなかで見たヨーロッパ各地の建物がかもし出す道路景観の美しさは私を圧倒した。ヨーロッパはすでに衰退期に入っており日本が学ぶことはもはやないという人でも、この美しさを否定することはできないだろう。日本の都市が堅い建物でつくられ始めたのはつい最近である。そして多くの都市が今後更に堅い建物を受け入れようとしている。いまだかつて見たことのないこの美しさをヨーロッパの都市はその歴史のなかでどのようにつくりあげてきたのか、これを日本の都市は学ばねばならないし、そしてその美しさをつくり出す独自の方法を見出さねばならない。
今回経験した街路のなかでも、私にとってとりわけ重要な地位を占めているのはマルティーナ・フランカとロコロトンドの街路である。それは素朴ではあるけれど、街路を考えるときの原点ともいうべきものになっている。
歩行者空間の必要性という問題意識をもってヨーロッパをめぐってきた今、その問題意識はますます私のなかで明確になってきている。札幌はスーパーブロック構想をひとつの方法として大規模な歩行者空間をつくり出す可能性を持っている。都市の活性度を考えた場合、日本でもその唯一の可能性を持った都市かもしれない。もしそれが実行に移されたなら、日本はもとより世界でも類例のない都市になるだろう。そのとき札幌は、ふたたびルドフスキーの言葉を借りると、豊かな土壌と養育の場にあふれた都市になるのだ。これほど希望に満ちた都市があるだろうか。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。