写真をご覧いただくまえに一言
ミラノは広場の街らしいが、1982年の訪問ではどこもかしこも自動車に占有され、広場や街路でここに紹介すべきものは皆無というありさま。ロンドン、パリ、アムステルダムといった大都市も同じような状況だったが、その後、ミラノでは都市域内の自動車の流入を大幅に制限したとの報道を耳にした。現在はどうなっているのだろうか。ただミラノのガレリア(ガッレリアの表記のほうがより忠実らしい)と呼ばれるアーケードは突出した存在で、その威容に目を見張った。しかし街路の考古学者にして考現学者ルドフスキーによれば、これも都市の広間としての機能を大きく変質させており、第二次世界大戦後の退廃を次のように嘆くのだ。
建物は残骸から忠実に再建されたが、ガラスの屋根の下での生活は二度と同じにはならなかった。よく磨かれた床の上には再びテーブルが並べられたが、この光景に現代版ヴェルディやプッチーニが特色を添えることはなくなってしまった。ビュッフィはスナック・バーに変わり、二階はセルフサービスである。カンパリーは痕跡すら残さず消え去った。モッタのバーは、かつてはヨーロッパ中でもっとも優雅で、親しみやすい逢引きの場所であったが、それも昔の数倍の広さに拡張された。このうえなく食欲をそそられる過ぎし時代のひなびた食物のかわりに、アイス・クリームや固形食が、自動洗濯機と同じように魅惑的な機械で売られている。
お客も同じように現代的になった。夏には、ガレリアはイタリア人からほとんど見捨てられる。そして、彼らの場所では、もっともあわれな宿無しとでもいうべき現代の旅行者たちが、まるで突撃隊かあるいは迷い人のように、理解できない街路の光景のなかを通り過ぎてゆく。彼らは自らの旅行の目的に無知であるばかりか、異国のものに警戒心を抱いているのだ。官能の満ちわたった環境のために大胆になり、ガレリアを海水着で訪れる旅行者もいる。さだめし、海がゆうに 100マイルも離れていることに気がつかなかったのだろう。
そうなのだろうと思う。だが、資本主義の嵐のなか、しばらくのあいだ野蛮な現代人が徳を涵養する場所として存在する運命にあることを、ガレリア自身が受け入れているはずだ、と考えるのだが。
ミラノ〜googleマップ
ミラノのアルバム album of Milano
撮影:1982年8月19日(木)と20日(金)