写真をご覧いただくまえに
いまやTVのコーマーシャルやたけしの番組にも取り上げられるガウディだが、怠惰な大学生だった頃、甚大な興味をそそられた唯一といっていい対象が、ガウディのカーサ・ミラーとサグラーダ・ファミリア贖罪聖堂(聖家族教会)だった。金不足で卒業旅行には参加しなかったから、1982年のヨーロッパ訪問では、ガウディが活躍したバルセロナは必見の都市となった。まる2日間の滞在中、見るべきものを見ることに専念したつもりだが、準備不足はもとより、旅疲れやカメラ操作の失敗やらで、正直いって映像としてお見せできるものでこれといった成果はない。そもそもガウディ関連の書物や映像(勅使河原監督、武満音楽の映画は映像も音楽もすばらしい)があふれている状況からして(手元にも磯崎新他編集の『ガウディ全作品(六耀社)』という大部の本がある)、ここで紹介することをためらったが、付録のようなものとして見てもらえればと思い、載せることにした。ただサグラーダ・ファミリア贖罪聖堂は2008年時点でも未完成であり、ここでの写真は1982年時の記録として一定の意味を持っているかもしれない。バルセロナにはガウディ設計の建築は14ケ所あるが、見てきたのは上記カーサ・ミラーとサグラーダ・ファミリアに加え、グエル公園の3ケ所のみである。
*google earth をご利用の方は、ここでの3ヶ所だけでも、それこそ無数の写真——世界中の人が最近撮った高解像度の(多分デジカメによる)カラー写真——をご覧になれます(すごい時代になったものですな)。したがって、本ページの写真はほとんど骨董品に近くなってきていますが、しいて逆の面から見れば、歴史性(要するに単に古いということ)が意味を持ち始めてきたと言えるかもしれません。その程度のつもりでご覧いただければさいわいです。
アントニー・ガウディ Antoni Gaudi (1852〜1926)
大学卒業直後のガウディ(1878年)1852年、バルセロナの南西約100kmの海岸線の町、タラゴーナ県レウスに生まれた。父と祖父、また母方の祖父も鋳物師という家系に育ち、幼少より病弱で6歳のときには関節炎にかかり、通学も途切れがちだった。69年にバルセロナで大学入学資格を取得し、 73年、バルセロナ大学建築学校に入学、78年に卒業するまでに母と兄を亡くした。卒業と同時に建築家の資格を取得、83年にはトラブルから辞職した前任者を引き継ぐかたちで、その前年に定礎したサグラーダ・ファミリアの工事監督に就任した。グロテスクともなりかねない細部へのこだわり、異国趣味、自然 ——特に植物と岩山からの直接的な引用と、あらゆる流派から無縁のその作風は、噴出するエネルギーの大きさでモダニズムの地平を超越している。若年時の貴族趣味から後半の敬虔なクリスチャン生活、社会主義的理想主義者、女性嫌いで生涯独身、菜食主義者等々のレッテルは、ガウディという多面的な巨人を知るうえでの端緒にさえならないだろう。晩年は次世代に引き継ぐ建築であることを自覚していたサグラーダ・ファミリア贖罪聖堂の建設に没頭、聖堂内の仕事場に寝食して以前にもまして禁欲的・隠者的な生活に入ったものの、1926年6月7日、聖堂付近で電車にはねられ、その3日後に帰らぬ人となった。
バルセロナとガウディの3施設〜googleマップ
バルセロナのアルバム
撮影:1982年8月9日(月)と10日(火)