都市の哲学 田村敏久・著

自らの存在を上昇させようとする人間が、場所をよりよいものにしようとして関心をむける主要な対象が壁の性状であり、また壁の性状のあつかい方が都市の街路を考える場合にもっとも大きな問題を提供することになるわけですが、もちろんそのとき壁だけで話が完結するわけではありません。

壁のつぎに、壁とならんで空間のすがたを決定しているのは、いうまでもなく空間を構成しているもうひとつの要素であるところの床です。床といっても、その仕上げの方法はさまざまあるとはいえ、それは街路を考えるときにすでにあるものですから、ルールを検討するときに壁をあつかう場合とおなじような話題が提供されるというのではありません。つまり床面の所有者(わが国では街路のほとんどが公共の所有になっています)が床をどう仕上げるかという単純な問題に還元されるということですが、その作業は本来、歩行者を代弁し代行する作業でなければ意味がないということを、蛇足ながらここであえて付け加えておきます。

ついでに物としての床の性状に言及しておきますと、場所をひとつの空間として提示するとき、床の仕上げの重要性が強調されすぎることはないということです。重要なのはもちろん床の仕上げそのものにあるわけですが、とくにわが国の街路の現状から発想するときには、床の領域を明示する必要性が強調されます。つまり、路面を表示している建物のすみからすみまで、あいまいな領域をつくらないことです。室内ではあたりまえのことも、屋外ではともすればぞんざいになりかねません。街路を人間の場所としてあつかうことに不慣れな私たちにとって、この点にかんしての意識的な取り組みがぜひとも必要になります。

天井、壁、床ときたら、空間を人間の場所にするうえで重要な最後の点は、そこにどのような物を配置するかにあることが容易に理解されだろうと思います。ここであらためて整理しておきますと、天井は空間構成の根幹にふれる問題としてあるわけですが、それ以降の壁と床の性状、それとこれから取り上げる物の配置の問題は結局、室内空間におけるインテリアデザインにまったく等しいものであること、また本来的な意味からして、それはじっさいそうでなければならないということです。街路は建物の外部に存在していとは誰もが理解するところですが、街路は建物のエクステリア(外部)としてではなく、街路そのもののインテリア(内部)としてデザインされなければ人間の場所になることはありません。

街路にインテリアデザインがあり、またなければならないというなら、読者のなかには、都市景観という表現が言い当てようとしているのはまさにそこにあると思い当たったひとがいるかもしれません。じっさい都市とは街路のことですから、都市景観が街路景観以外にありえないのは論理的必然といえますが、都市景観を取り上げる土壌は街路のインテリアデザインを問題にするところにしかありえないのです。つまり、街路のインテリアデザインが問題にならないところに都市景観が登場する余地はありえず、またその必要も本来的あるわけではないということです。

ここを理解すれば、街路の現状を放置したままで都市景観を口にすることが、いかに現実ばなれしているか明らかになるでしょう。行政側がしきりに都市景観を口にしても一般市民の反応がにぶいのは、けっして市民が不感症だからではありません。現実の街路が都市景観を口にできる状況とは程遠いことの、それは素直な結果にすぎないのです。街路の現状を反省することなくしたり顔で都市景観を口にするのは、たんに悪い冗談だということにどどまらず、街路に潜在する問題を隠すという意味で犯罪的行為といわれてもしかたがないところです。

話が多少ずれたかもしれません。引き継ぐべき点は、街路に置かれる物を街路のインテリアとしてとらえる必要性です。そう態度をきめれば、街路になにを置くかを問題にするまえに、わが国の都市の風俗を象徴しているかのような電柱がこのうえなくいまいましい存在として明確に浮かび上がってくるはずです。というより、街路に電柱を放置しているひとびとが、なにか本質的なものをうしなった人間の集団のように思えてくるはです。じっさい街路に放置された電柱は、都市の部屋という都市の人間にとってもはや神といっていい存在を失った端的なしるしにほかなりません。街路が都市の人間の部屋なら、そこに電柱を放置しておくことはどうしたってできないはずだからです。

電柱以外に現状の街路から問題になるのは、看板の類のあつかい方であるのは予想されるところでしょう。看板といっても一筋縄ではいかないところがあって、現状の街路で看板が迷惑な存在になっているのは、けなげにひたすら見られようとする看板の性質からきていることを忘れてはなりません。つまり、看板はほんらい建物を歩行者に紹介する役割をになっており、看板が歩行者に見られにくい状況があればあるほど、看板は見られようとしゃしゃり出てきて、結果、迷惑な存在になるのであって、そうでなければ納まるところに納まるはずものであるとういうことです。

具体的にいいますと、街路の端に押し込められた歩行者にとって、関心のある建物、つまり歩道に面する建物の外観はほとんど見えない現状にありますから、看板はそこから突き出るかたちに配置される運命にあり、結果、それらの看板は歩行者の通行の妨げになったり、歩行者にたいして建物の外観を完全にふさぐことになったりします。しかしそうなるのは歩行者が街路の端に押し込められているからです。私たちがいま想定している街路は歩行者専用道路というかたちで、歩行者が街路の全域を利用する形態にあり、そこで外壁を正面から見る場合に突き出し看板は無効となりますから、突き出し状の看板はおのずと一定量以下に駆逐される運命にあります。

といっても、インテリアとして見た場合におかしな看板はいつでもあるものですから、やはりルールをさだめてそうならないようにする必要はあります。

現状の街路から想像できない追加すべきもう一点は、いわゆるストリート・ファーニチャとして、どのような物をどこに配置するかということです。ストリート・ファーニチャとはそのまま街路の家具と訳されるもので、街路がインテリアとしてデザインされなければならないことを理解すれば、ごく自然な表現であり、また街路に必要であるはずの物であることが納得されるでしょう。

ストリート・ファーニチャとしてなにがあるか具体的にあげてみますと、一般的には街灯、ベンチ、テーブル、花壇、彫刻などがありますが、街路を人間の活動の場として工夫すれば、それだけ多彩な物が考えられます。いずれにしろ、それらは公共の側が設置することになるずですが、その作業は本来、歩行者を代弁し代行する作業でなければ意味がないのは床の場合と一緒です。

 

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