都市の哲学 田村敏久・著

ここで、ほんらいの筋にもどります。建物の用途を問題にして、つぎに取り上げるべき点は、おなじく建物について、その外観のあつかい方です。

建物の外観が建物の外部で生活する私たちにとってきわめて自然な興味の対象であることからして、おなじく建物の外観のあつかい方がきわめて自然なものとして導出されるというわけではありません。人間の自然な興味の対象であることは、それが人間の普遍的な反応の産物であることを端的に物語るだけで、そこに人間の普遍的な反応を冷静に判断する客観的な観点と、人間が協同して都市をかたちづくっている実情を反省する観点がなければ、都市の建物の外観をあつかう具体的で有効な方法が導出されることがないのは、わが国の都市の現状が証明しています。

私たちはすでに、都市の建物の外観をあつかうための客観的な観点を確立してきたはずですが、人間のきわめて自然な興味の対象であることにかこつけて、建物の外観が人間の生活といかなる関係にあるのか、確認の意味もこめて、ここで簡潔にふれておきたいと思います。

建物の外部で生活するとき、私たちは視界にはいる建物の外観を見るなといわれてもどうしても見てしまいます。べつにきれいな建物でなくても、そうです。どうしてでしょうか。といっても、私たちはすでにこの点を明らかにしてきました。すなわち、建物が人間の場所をかたちづくっている都市にあって、人間は建物を視界におさめて自分の場所を察知する必要がどうしてもあるからです。建物の外部に存在する都市の人間は建物をたよりに自分の場所を把握し、自分の存在をささえているのです。

この点を押さえるなら、建物の外観が人間の自然な興味の対象であることが、すなわち建物の外観が都市構成上の本質的な問題を提出しているという関係を明確に把握することができるはずです。現在のところ、私たちの建物の外観への自然な興味は都市計画に結集されることなく、たんなる世間話に貶められていますが、それは現状の都市計画が建物の外観と都市の人間の根源的な関係を把握していないからです。

建物の外観を見ることで人間にとって基本的に重要なのは、連続して立ち並ぶ建物の上端がえがく形状を把握することでした。それはつまり、連続して立ち並ぶ建物の外壁が空間をかたちづくっている状況にあって、空間を察知しようとする人間にあたえられた、そのためのほとんど唯一の方法だからです。この空間と人間の第一の段階では、人間を囲む壁の配置状況を知ることが最大の問題となりますから、人間の関心は建物の上端が見せる天井の形状にむけられます。

そうして人間にすがたをあらわしている空間にたいする人間のつぎの関心は、こちら側を特徴的なひとつの場所として明示している壁の性状に向けられます。これがどのようなことかを理論的に説明するまえに、人間の直観にとらえられている内容の話をしておきたいと思いますが、現状の街路から発想しているうちは無理な相談ですから、そのためには屋内の空間になぞらえることがもっとも確実で有効です。

屋内空間と屋外空間が空間として人間にとって本質的におなじものであること、また人間にたいするその立ちあらわれ方についても変わるところがないことはすでに説明してきました。屋外の空間について天井という表現が可能なのも、そのためであったわけです。そこで屋内空間にあって、そこに存在する人間に壁がどう作用しているか、というより人間は壁をどう扱おうとしているかを考えてみましょう。

といっても、それは説明するまでもなく明らかなことです。人間は監獄をのぞいて、そこが存在しなければならない部屋であるならなら、またそこが自分の部屋ならなおのこと壁をきれいにしようとします。これはほとんど避けられない人間の行動といっていいほどのものです。どうしてかといわれても、私たちの直観に問いかけているうちは、そうしたいからそうするのだという以外にありませんが、私たちはこの点を説明するたしかな観点をすでに獲得しています。

つまりそれは場所と人間の存在は一体であるということ、つまり人間の存在は人間が発見した場所によってしめされ、規定されているからです。このことが、場所の察知と承認が人間の存在にとって不可欠であり、人間の存在を根底からささえている事実と表と裏の関係にあるのは、あらためて指摘されるまでもないことです。場所と人間の存在が一体であるなら、人間が自らの存在を上昇させようとすれば、自らの場所をよりよいものに上昇させる以外に方法がないのは明らかです。ひとつの場所を場所として提示しているもっとも大きな要素が壁ですから、そのとき人間の関心は壁の性状にむかい、壁をきれいにしようとするのです。

 

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