都市の哲学 田村敏久・著

街路空間の構成の根幹にふれる点として建物の高さをあつかってきましたが、街路を空間にみせている建物について、つぎに取り上げられるべき問題は建物内部の使われ方、つまり建物の用途です。なぜ建物内部の使われ方が問題になるのかは、ふたつの観点からしめされます。

まず単純なほうの観点は、自動車のアクセスを問題にする立場です。私たちがいまあつかっている街路は歩行者専用道路ですから、その両側の建物への自動車のアクセスは時間制限によるか、あるいは裏側にあるはずのサービス道路からになります。いずれにしろ歩専道沿いの建物には自動車用道路から直接アクセスするわけにはいきませんから、自動車のアクセスを頻繁に必要とする建物の立地場所として歩専道沿いは不向きです。

それらの建物を例示すれば、立体駐車場、倉庫、工場などがあげられますが、もっとも歩行者用と自動車用のふたつのネットワークを構想すれば、自由経済を前提する以上、そうした建物はおのずと自動車用道路沿いに立地することになるはずですから、ここであえて問題として掲げる必要がないといえば、たしかにそのとおりです。

つぎのより本質的な観点は、街路が建物に囲まれて出来上がる人間の場所をルドフスキーにならって都市の部屋と呼ぶとき、建物によって形成される都市の部屋の質を問題にする立場です。建物の内部をどう使おうと、周囲に迷惑をおよぼさないかぎり自由であるべきことを私たちの自然な理性は主張するはずですし、じっさい自由経済はそこを基盤にしていますから、自由経済を主義としてもっぱら掲げるかぎり建物用途を制約する根拠は発見されません。わが国の現行の用途地域制度は一見したところ、建物の用途を制限する制度であるかのようにみえますが、じつはその生まれからして建物用途を制限することを禁じられた制度であることはこの次のところで説明します。

自由主義経済のシステムを手放すわけにはいきませんから、というより自由主義の経済が人間にとって必要なのですから、建物用途の自由もまた人間にとって必要だということになります。しかしそういって済ますことができるのは、自由経済主義に捕らえられている場合にかぎられます。自由主義経済を人間にとってこのうえなく大切なものとみとめながら、それをひとつの条件とするような、より高いレベルにある理念を人間がいだいたとき、自由主義経済から導出される建物用途の自由もまた金科玉条ではなくなります。逆にいいますと、あらたな理念が自由経済主義を乗り越えられるかどうかは建物用途の自由が金科玉条でなくなるかどうかにかかっているということです。自由経済主義を掲げる人間が建物用途に口をだすことができるのは、自由経済主義を乗り越えるあらたな理念を定立したときです。現状がまったくそうではないのは、用途地域制度が建物用途の制限を禁じられていることによって証明されているわけです。

前置きがながくなってしまいましたが、結論をいいますと、自由経済主義を奉じる人間が建物の用途を問題にすることができるのは、街路を歩専道の形態にして、そこを都市の人間たちの部屋にしようとするときだけです。そのとき建物用途がどう問題になるかを次に説明しましょう。

人間にとって壁は、壁の向こう側についての理解があってはじめて意味のある壁としてあらわれています。したがって、壁のこちら側が人間の場所としてあらわれる過程にその点の理解がおおきく作用します。むずかしくいいますと、人間の場所としての壁のこちら側は、壁の向こう側についての理解を変数とする関数としてあらわれているということです。人間の場所はひとつの壁によってひとつの場所があらわれるという単純な関係になっているのではなく、ひとつの壁によって現出する場所は壁の向こう側についての理解によってささえられているのです。

これは不可避の現実ですから、それが具体的にいかなるものなのかは私たちの日常生活を反省すれば明らかになるはずですし、ほんとうは理屈で説明される以前に私たちの直観で捉えられているはずのものです。こうして、街路が都市の人間の部屋となってあらわれるについて、そこを囲む建物内部の利用方法が問題の俎上にのせられる次第となります。建物内部のどのような利用法が都市の部屋を囲む建物としてふさわしく、またふさわしくないのかを簡単にいうことはできません。それは本来的に、それぞれの歴史と特性をもった都市の現実をふまえたうえで、都市の部屋の住人が決めることであるからです。といって、私たちの日常生活を反省すればよいのですから、そうした建物用途を挙げることがむずかしいというわけでもありません。

いま、そうした建物用途を‘ひと系用途’とよぶことにします。また自動車のアクセスの観点から導出される自動車用道路沿いにふさわしい建物用途を‘くるま系用途’とよぶことにします。そうすれば建物用途について、歩行者用と自動車用のふたつのネットワークでおおわれた都市の全体は、それぞれの地域の特性におうじて、さまざまな濃淡をもって‘ひと系用途’と‘くるま系用途’で塗り分けられることが理解されるはずです。これこそ私たちにとって必要な用途地域であり、また都市にとって本来的に必要な用途地域にほかなりません。

街路を人間の場所に見定めたとき、はじめて人間は建物の用途を理性的にあつかうことができるのです。

 

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