都市を語ろうとするなら、私たちはどのようにして語り尽くすことができるのでしょうか。都市の複雑きわまりない事象に目をうばわれて、都市を語る困難さだけを強調するのは私たちにとって賢明な方法とはいえません。都市を語るための免罪符をただで手にいれることにひとしいからであり、そのとき都市を語り合う場は無償の饒舌によって埋め尽くされるでしょう。そうであるなら私たちは都市を語り尽くすことはできません。 また、知識をひけらかして都市についての過去の言説をうやうやしく持ち出すのも間が抜けています。それら言説と無関係に、都市は圧倒的な事実となって現出しており、私たちの生活をすっかり覆っているからです。都市に居住する私たちの現実と無関係であるような言説は、それがどのように美しくまた巧妙に組み立てられたものであろうと、およそ意味がありません。私たちにとって意味のある都市への語りは、都市という事実を事実として受けとめ、その事実を解明するなかにしかありえないのです。 したがって都市を語ろうとするなら、まずもって都市の客観的な形態を明らかにする必要があります。都市の客観的な形態とはつまり都市の構造であり、私たちの都市への語りはそこを軸に展開されるのでなければ、希望の都市に結実することはありません。その解明は第1章でなされますが、あらかじめ明言しておきたいのは、私たちの都市が私たちの現実の生活からの具体的で確実な必要性にもとづく活動によって成り立っているからには、都市の構造はおなじく具体的で確実なものとして築かれているはずだということです。それなのに都市の構造がいたずらに複雑なものとして提示されるなら、私たちは最初から疑ってかかるべきです。 しかしここでは次のより根底的な問いを掲げ、検討しておきましょう。それは、私たちはなぜ都市を語ろうとするのか、また語らなければならないのかということです。 都市と私たちの関係を読み取る出発点のひとつは、都市が私たちの具体的な活動によって出来あがっている何かであるのは、ともかく疑いのない事実だということです。都市は人間によってつくられる以外にありえない存在です。したがって、都市は普通に言うところの自然と対置される性質を備えているはずですから、都市を語るにあたって思わず自然に言及してしまうナイーブさを私たちは反省する必要があります。都市をつくっているのはまぎれもなく人間自身です。 そのもうひとつは、都市に居住する人間にとって、都市は逃れられない環境として現前しているということです。逃れられないから環境と呼ばれるというのが本当のところですけれども、環境をたんに人間を取り囲む状況としてだけ捉えるなら、その意味するところの大半は欠落してしまいます。環境は生命との不可分の関係によってはじめて環境と呼ばれるに値します。つまり、環境は生命を生命たらしめている限りにおいてはじめて環境であり、逆にいえば、生命は環境によってはじめて生命でありえています。 この[環境−生命]の関係が都市という人間の生活の場で具体的にどう展開されているかは本論で扱われますが、都市に居住する人間なら、自分の生活の方法と内容が都市という特徴的な生活形態によって決定的に規定されている事実を簡単な反省によって明らかすることができるはずです。都市の人間は都市によって規定されている、より突っ込んで表現すれば、都市の人間をつくっているのは都市そのものです。 このふたつの点から、人間は都市をつくり、都市は人間をつくっている、つまり都市を媒介にして人間が人間をつくっているという構図が描かれます。人間と都市のこの関係をじっくりながめれば、私たちは次のように表明する根底的な必要性を予感することができるはずです。その表明とはつまり、都市の人間にとって、都市は倫理の対象、それも第一の倫理の対象にならなければならないということです。都市を倫理の対象に据えるというのは、人間が都市を構成するにあたって、しなければならないことは何なのか、してならないことは何なのかを明らかにすることです。 この理由を説明するのに多くの言葉は不要でしょう。それはつまり、都市という場を媒介にして不可避的に人間が人間をつくってしまうからです。都市が人間活動の自然な産物として現前しているとはいえ、人間が人間をつくってしまう唯一の具体的な場所が都市であれば、都市にどうしても倫理が必要になります。人間と人間の関係を取り仕切る規範が倫理と呼ばれるものですから、人間が人間をつくるという場面以上に倫理の必要性を説明する局面は本来ありえないはずです。 きょうび、倫理という言葉がふるくさいものと思われているは、たんに倫理をもたらす根源が忘れられている、というよりその根源にたどりついていないからです。倫理の母体が不明のままに生まれた形式だけの倫理が人間を不幸にしかねないことを人間は歴史から学びました。だから倫理が嫌われる現状はそれなりに健全といえるにしても、人間が成長したわけではまったくありません。その点はわが国の都市の現状をつぶさに観察すれば明らかですが、人間が成長するためにこそ倫理が必要なのだと私はあえてここで断言しておきます。本書において、倫理の母体となるところから生まれる倫理が、もはやあらためて倫理とよぶまでもなく確実で明快なものとして提示されるはずです。 ところで倫理をもたらす根源、あるいは倫理の母体とは何なのでしょうか。それはつまり哲学と呼ばれているものです。哲学といっても人間にとって特別なものと考える必要はまったくありませんし、都市について哲学をいうなら、どうしたってそうなるわけはありません。都市の哲学は、都市を人間の環境として徹底して相対化するところに生まれ、人間の環境としての都市の方向性を明らかにしようとするものにほかならないからです。 都市を人間の環境として相対化するとは、都市を人間の生活からの直接的な必要性を満たす対象として捉えるのではなく、そこから一歩退いて、[環境−生命]という観点から都市の状況を分析し把握することです。この作業が十分になされるなら、当然の成り行きとして、そこから人間の環境としての都市の方向性がしめされるはずです。というよりも、人間は[環境−生命]という関係態でしか生きていけないからこそ、生命を育む環境としての都市のありかたが提示されなければならないのです。第2章以降の作業はこの面からの人間と都市の分析に向けられます。 ここでの話が観念の世界ではなく、都市という具体的な現実の世界であれば、その倫理もまた具体的でなければなりません。というよりそうなるはずのものであり、またそれらは実践してはじめて意味があたえられます。都市の実践につながらない都市の言説はたんに口先以上のものにはなりえません。都市が都市の人間の逃れられない環境だからであり、都市の人間は都市を媒介にして人間をつくっている現実が不可避の日常だからです。そこで、最後のふたつの章で実践にいたる道筋とその具体の中身がしめされます。 本論にすすむまえに、都市の実践とはどのようなことで、いかなる内容を含むのか、その概略をここであらかじめ説明しておきましょう。都市の、都市についての実践が、普通の意味での実践とおおきく異なっているのは、まず第一に実践の主体にかんしてであり、つぎに実践の発動と完結にかんしてです。個人の実践なら、その主体は明確ですし、発動と完結についての判断もむずかしくありません。このことはひとつの団体についてもひとしくいえます。ところが都市の実践をいう場合、都市という主体が存在するわけではありませんし、なにをもって実践の発動・完結とするか、それほど簡単ではありません。 ともかくはっきりしているのは、都市は家庭、企業、団体といったさまざまな主体によって構成されているという事実です。都市はそれら主体の関係体として現前しています。ところが、それら主体は自らの生き方に熱中していて、都市を構成しようと意識して都市を構成しているわけではないというのが実情です。ここから都市の実践は、それら各種主体のあいだで必要な事項をルールとして定め、ルールにもとづいて各種主体が実践し、都市全体の望まれる方向を実現するという以外にありえないことが帰結されます。またじっさい、それは理性的人間にとってもっとも望ましい方法であるはずです。 ルールの必要性は、とくに実践の完結という面から補強されます。なにをもって、またいつをもって都市の実践の完結とするかを簡単にいえないのは、都市が、都市を構成する各種主体を細胞とする、永遠に変化しつづける有機体としてあるほかないからです。各細胞は時間とともに勢力を強めあるいは弱め、また消滅し生成し、再生し増殖するといった具合で、細胞の総体としての都市の確定的な姿はありえないともえるし、また瞬間、瞬間の姿がそれなのだともいえます。つまり都市は永遠の相において捉えられる必要があり、したがって都市の実践の完結は事実としては永遠にもたらされることがないのです。 ここでルールは実践の発動のしるしであると同時に、実践の完結をしめすしるしともなります。理性的な人間はルールにもとづいて実践していくだろうと、すくなくとも信じることはできるはずだからです。このことは、ルールの制定にいたっていない都市は未来を失った都市であると表現できることを示唆します。それがどんな都市かは、わが国の都市の現状を見ればいいでしょう。 こうして都市の実践はルールによって体現される次第となり、したがって都市についての実践の道筋と中身は、ルールの導出過程とルールの内容として説明されることになります。 以上、先走ったところもありますが、都市を倫理の対象としてとらえる必要性を説明し、その流れのなかで本書の全体の構成を俯瞰したところで本論にはいります。
|
222469