都市の哲学 田村敏久・著

おわりに

都市の現状をふりかえれば、自動車を流さない道路をほんとうにつくることができるのか、建物の高さの統一をいかにして図ることができるのか、真面目な人間には絶望しか残されていないかのように思えます。じっさい私たちは都市の現実に絶望すべきなのであり、問題はむしろ絶望が回避されていることです。

絶望が回避されているのは都市の現実から目をそらし、都市の未来を見すえることを避けているからです。しかしそれは私たちの自然な性向から外れていますし、またじっさいのところどうしたってそうしていられるわけではありません。現在の生活から未来をつかみだし、現在と未来を結ぶことが人間の理性の本来的なはたらきであるからですし、都市の現実は都市のいかなる人間にとっても圧倒的な現実にほかならないからです。それなら、都市の人間たちが都市の現実に目をつぶって都市の未来を忘れているかのような現状は、どのように解釈されるべきなのでしょうか。

それは人間のナチュラルな行為ではありませんから、なにかによってそうさせられているのだと考えるほかありません。そのなにかとはつまり資本主義です。資本主義はつねに完成を拒みます。というより、なにかが完成されたその瞬間にべつの未完成のものを発見するのが資本主義です。そのわけは、未完成を完成させ、不足を充足させようとする人間の欲望が資本主義をうごかしているからであり、その欲望が枯渇したところに資本主義の運動もおなじく枯渇し、そのとき資本主義のもとで人間はたんに敗者の地位に貶められるからです。

つねに完成や充足を拒み、未完成と不足を発見する資本主義の運動にあって、その運動を継続させるためのもっとも安直な方法は、現実に展開されている資本主義の運動をそのまま引き継いで展開させることです。とはいえ、資本主義を客観的にとらえる観点からも、こうした方法が人間の自殺行為になりかねないことは明らかですが、おなじく明らかなのは、そこでは現実を見つめて反省し未来を展望することが不要であるばかりでなく、むしろ運動を展開するうえの障害として排除されるということです。この場合、本質的に重要な態度は現実のながれに盲目的にしたがうことであるからです。

都市の現実から目をそらし、都市の未来を忘れることが可能になるのは、現実の運動に盲目的にしたがうことを選択したときです。より正確にいえば、資本主義のもとで敗者の地位に貶められる恐怖から、ともかく安直に資本主義を展開させようとすれば、人間は現実の運動に盲目的にしたがう以外に身の処し方を発見することができないということです。これがわが国の現実にほかなりませんが、そのとき第一に、それは理性をもった人間の自然な性向から外れていることによって不可避的に人間のなかに不安が生じ、第二に、圧倒的な現実に盲目的にしたがう以外にないことから人間は現実の奴隷となることが避けられません。

こうしたわが国の現状は大問題ですけれども、その原因が資本主義にあるわけではありません。そのほんとうの原因の所在を、ここで明らかにしておきましょう。

資本主義の動力が未完成を完成させ、不足を充足させようとする人間の欲望にあるのなら、資本主義は悪い主義ではなく、むしろ人間にとって自然な、また人間を発展させるうえでむしろ必要な主義であるということができます。人間にとって自然な主義だからこそ資本主義が人間の普遍的な運動になったわけですが、そこでの問題はしたがって、なにをもって完成とみなし、充足とみなすかにあります。完成の状態と現状の落差が欲望の量と方向をしめていますから、資本主義の運動の問題点はここに帰着します。

完成と充足の状態を想定するというのは、結局、そこに理念を打ち立てることです。この点を理解すれば、理念が運動のエネルギーと方向を決定している構図を容易に見て取ることができるはずですが、そこから明確にいえるのは、理念を打ち立てることによって資本主義を理念を実現するためのもっとも自然で有効な手段として位置づけることができるということです。それはすなわち、資本主義の上に人間を置くことにほかなりません。

では理念がなかったらどうなるでしょう。すでに検討してきたのは、じつはこの場合であって、そのとき人間は現実の奴隷になるというのは、人間が資本主義の下に置かれることを意味します。

未来に設定する理念がなければ、人間の欲望の量と方向は、実現された過去といまだ実現されていない現在の落差として測られ、決められる以外にありません。わかりやすくいうと、昨日あったように今日を期待し、今日あるだろうように明日を期待するというわけです。現在が過去によって、未来が現在によって拭いがたく覆われていることが理解されますが、このとき人間は過去を現在に再現する以外にありませんから、実現された過去にしたがうだけで、現実のなかに問題を発見することはもちろん、その問題を解決することもできないのです。

人間が現実の奴隷になるとはこのことです。現実がすなわち資本主義であるわけですから、このとき人間は資本主義の下に置かれ、資本主義の矛盾に抑圧されることが避けられないのです。

私たちは理念を打ち立てて、この都市の現実に立ち向かう必要があります。現状からみればなにか特別な態度のように思われますが、それは資本主義から人間を解放し、資本主義の上に人間を置き、資本主義を動力にして都市の人間が発展するための唯一の方法にほかならないことを説明してきました。

といっても、私たちはすでにその現実の都市に打ち立てられるべき理念がなんであるかを明らかにしてきました。本書の目的はまさに、その理念の解明にあったわけですが、そこから都市の現状をながめてみれば、自動車が個性を見せびらかしながら我が物顔に街路を走行しているありさまや、建物の高さや外観がたんに建物の個性を強調する有力な手段にしかみなされていない状況がいやおうなしに目に入ってきます。街路から自動車の走行を排除し、街路の両側に並ぶ建物の高さの統一と外観の調和をはかる必要性を主張する立場からすれば、それは絶望するのに十分すぎるほどの状況です。

都市の現状に絶望して、あらためて状況を点検してみれば、私たちはそこに時間の流れを挿入するのを忘れていたことに気づきます。たとえば、ふつうの建物の寿命は数十年ですから、いまからその数十年後には都市のすべての建物は更新されているはずです。つまり、都市はつねに変化しつづける関係体として現に存在し、また将来にわたって存在しつづけるのです。ここを押さえたなら、私たちの実践は無意味どころか、ただちに始められるべきであることが明瞭に理解されるでしょう。

しかし都市の実相に迫ろうとするなら、建物の寿命である数十年をはるかにうわまわる時間のレンジで考える必要があります。簡単な反省によって明らかになるのは、都市は私たちの命の長さをはるかに越える長さで存在しつづけるはずですし、またそれが都市に生きる私たちの希望にほかならないということです。その時間の長さは限度を設定できない長さですから、それを永遠とよんでも、けっして大げさというわけではありません。そうすれば、都市は永遠という人間の希望をになった関係体として存在していることが捉えられます。

しかし、未来とかかわる人間の心のなかに芽生えるのは、希望ばかりではありません。希望をいだくのとまったくおなじ仕方で、人間はそのとき不安をかかえることもあるのです。というより人間は未来に希望をいだくからこそ、人間にとって未来は第一に不安そのものだといったほうが正確です。未来に希望があるのに、未来がどうなるかだれもわからないから未来は不安そのものなのです。したがって永遠は、また人間の不安、その極大の不安に直結しています。

資本主義の下に置かれて現実の奴隷の地位に甘んじている人間にとって、未来は現在の反復にすぎないのですから、未来に希望を設定する理由はありませんし、したがって未来への不安とも無関係であると理論的に説明されるところですし、じっさいそういって息巻いている人間が多いのも事実です。しかし人間と未来の関係はそれほど単純ではありません。

人間の理性はどうしても未来を見てしまうものです。それは人間の理性ほんらいの働きですから、資本主義の下に置かれている人間は、どうしても見えてくる未来をあえて見ないようにしなければなりません。現状をそのまま展開するだけの資本主義の運動にとって、未来を見ることは運動の障害にしかならないからです。必然的に見えてくる未来からあえて目をそらし、現状のながれに身をまかすというのがそこでの人間の生きる方法であるわけですが、それは人間の自然な理性にとってどうしても無理な話ですから、そうしたところで必然的に見えてくる未来の不安から逃げおおせられるわけではありません。未来を素直に見ようとしないだけ、その不安は呪縛にちかいものとなって人間を金縛りにしてしまうのです。

こうしてあらゆる状況のもとで、未来をとらえる人間のなかに不安が生じるさまを見て取ることができますが、それでは人間は不安をかかえたままで未来をむかえるほかないのでしょうか。そうだといって済ますのは人間にとって上等な生き方とはいえません。人間は人間の内部に生じる不安を解消しようとせずにはいられない生き物ですし、人間の喜びは不安にうちかって生きることのなかにあるはずなのです。未来をみすえたときに不安に取りつかれるのも、不安にうちかつのも人間の理性の働きにほかなりませんが、これら人間のなかに生まれる不可避的な心の働きは、人間の生きる方法といかなる関係にあるのでしょうか。

もちろん、人間の心の働きと人間の生きる方法がいかなる関係もないというのではまったくありません。それどころか、具体的な生きる姿勢が人間の心の内部を決定しているといっても過言ではないのです。たとえば、人間にとってごく当然と思えるつぎの事実を反省してみてください。

現在の不備がはなはだしく、その状態が放置されたままであるなら、未来への不安は増強されるでしょうし、その逆であるなら……つまり完備された現在があり、そのための処置が施されているのなら……未来への不安は少ないでしょう。また一方、現在の不備がはなはだしくても、その原因と対応の方法が明らかになっているのなら、未来への不安は少ない、というより未来は希望そのものであるでしょうし、その逆であるなら つまり完備された現在があるように見えても、その原因と対応の方法が明らかではないのなら 未来への不安は増強されるでしょう。

人間のなかに不可避的に生じる不安と拮抗しうる人間の理性の働きがいかなるものなのかは、この単純とも思われる因果関係のなかに示されています。すなわち、理性によって現在のすがたを把握し、そこから未来に具体的なイメージを設定したとき、はじめて人間は未来への不安を取り除くことができるのです。未来に設定する具体的なイメージとは、すなわち都市の理念にほかなりせんが、その確実性は現在を把握する確実性に依存しています。つまり、現状の確実な把握は未来に設定するイメージの確実性を保証し、それはまた未来への不安を確実に除去します 現状の不十分な把握は未来に設定するイメージの不十分さをあらわし、それはまた未来への不安を十分に除去できません。

こうして、現在のすがたを把握し、そこから未来に具体的なイメージを設定する理性の働きによって、未来に向かう人間のなかに不可避的に生じる不安を最小限にすることができる実情が理解されます。もとより、そのとき人間は勇気をもって未来に立ち向かうことができることの重要性が強調されるべきなのは、いうまでもありません。これは現在の不備あるいは完備と無関係な、人間にとっての普遍的なもっとも喜ばしい生き方であり、人間の理性は本来そうした生き方を人間にもとめているはずです。未来になにものも設定しないで不安とは無縁だと息巻いている人間は、ほんとうは未来に設定したイメージの神秘性を売り物にしたがっている人間にすぎないのです。

そこで都市に目を転じましょう。都市の人間にとって都市とはリアルタイムで生きているいまこの世界そのものにほかなりませんから、都市を論じることはすなわち現在生きているこの世界の第一のものについて論じることです。その第一の世界について、現在のすがたのいたるところに不備が発見されているにもかかわらず、そのほんとうの原因も対処の方法も、したがって未来のイメージもなんら明示されていないのなら、都市を語るにあたって、都市に居住する人間には絶望しか残されていないはずです。そうして絶望することに無縁なひとがいるなら、そのひとはなにかによって理性の働きが麻痺しているのではないかと疑ってみるべきなのです。

この本は、都市に居住しながら都市に絶望を強いられているひとびとにたいして、都市の現状の見取り図を提示し、未来に設定される都市の具体的なイメージと、そこにいたる道筋を提示し、もってして不安を解消し、絶望を希望に変えて未来に向かう勇気をもたらすために書かれています。ここに描かれた都市のすがたが正しいかどうかは、それがあらゆる障害者や老人や子供にもっとも喜ばれる都市であることによって証明されているでしょう。かれらが喜ぶ都市なら、普通のひとびとも喜ぶ都市であるのはまちがいなからですし、人間の環境としての都市の正さはそうして測られるべきものにほかならないからです。だからこそ、ここに書かれている都市の未来に向けて態勢をととのえるとき、絶望の都市は希望の都市に変わるはずなのです。

都市の現状が私たちの希望の都市とあまりにもかけ離れているからといって驚いてはいけないのはすでに説明しました。都市はつねに変化つづける有機体として存在しており、したがって私たちの実践はつねに急がれているからです。そこで現状と希望の落差をなげくのは無償の行為にすぎないのです。

都市は永遠に変化しつづける有機体として存在しています。あらためて説明しますと、都市が有機体だというのは、都市を構成するすべての部分は互いに緊密に関係しあってひとつの抜き差しならない状況をかたちづくっており、その状況がすなわち都市にほかならないという意味です。またそこで永遠というのは、人間の命は有限であっても、都市は人間の命をはるかに越える長さで存在してきたし、またこれからも存在しつづけるはずだということです。こうして客観的に都市をとらえるとき、都市を媒介にして、都市に居住する人間は過去と未来に結びついているということ、したがって都市の永遠はすなわち人間の永遠にほかならない実情が浮かび上がってくるはずです。

都市に居住する人間にたいして、都市は生活を規定する本質的な環境としてあられており、それは都市に居住する人間にとって永続する不可避の、しかも根源的な条件です。したがって、都市に居住する人間にとって永遠とはまず第一に都市の永遠です。また都市そのものは都市に居住する人間の活動の産物にほかならないのである以上、都市の永遠はすなわち都市を築く人間の永遠を指示します。こうして、都市の人間が人間の永遠を感得できるのは、第一に都市を媒介にすることによってである事情が説明されます。

しかも都市の人間にとって、これにまさるリアリティをもった永遠はありえません。なぜなら、それは都市のあらゆるひとにとって不可避の場所である街路として結実しているからです。街路こそ、まぎれもなく都市に居住してきた人間たちの唯一の活動の成果ですし、現に私たちは街路を都市の唯一の場所として生活しています。さらに、未来の都市にむけての私たちの活動も街路に結集する以外にありません。都市に居住し、都市に働きかける人間の永遠は街路に事実となってあらわれています。街路が都市の永遠を体現しているのです。

永遠を指示する主体が神と呼ばれるべき対象にほかなりませんから、都市の人間にとって街路は神にひとしい存在であるということができます。ここで、街路を「養育の場であり豊かな土壌」と呼んだバーナード・ルドフスキーの言葉を思い起こせば、街路によって都市の人間が命を与えられている実情を余すところなく理解できるはずですが、それはすなわち神によって人間が命を与えられている事実を端的に説明するものです。都市の人間の命がどうあつかわれるかは、都市の人間が街路をどうあつかうかによって一元的に決定されているのです。

都市の人間に喜ばしい命が与えられるのは街路という神の恩寵によってであること、またそれ以外にありえないことを都市の人間は知らなければなりません。都市に生活する人間にとって神と呼ばれる対象は街路にほかならないことを理解したとき、都市の人間は街路によって祝福され、永遠の命を与えられるのです。

 

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