街路研究会
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トスカーナの歴史

ピストイア Pistoia

 ルッカから東へ、およそ50km進むとフィレンツェ、ピストイアはちょうどその中間に位置します。主要な周回コースであるルッカ→フィレンツェの中継点としてあるピストイアを、まさにほとんどただそうした理由から訪れたというのが実情でしたが、その計り知れない歴史に裏打ちされた都市の妙味を筆者はおおいに楽しむこととなりました。

 ピストイアの歴史は紀元前2世紀のローマ時代に遡ります。この時期、ローマは北方のリグリア人と厳しい戦いを展開していました。その最前線にあったピストイアは、ローマの要塞都市となって兵隊への補給基地として機能していたらしいのです。当時の名称ピストリア(Pistoria)は、ラテン語でパンを焼くオーブンを意味することからも、その事実を推し量ることができます。
 しかし近年の発見はローマ時代に先行するエトルリア人の居住を示唆しています。1972年、ピストイアの中心、ドゥオーモ広場に面する司教館の横から、紀元前5世紀頃のエトルリア人墳墓の礎石が発掘されたのです。そうなるとピストイアはエトルリア起源の都市となって、その歴史はさらに数世紀遡ることになります。
 さて紀元406年、ピストイアは東ゴート族に略奪・破壊されます。東ゴート王国滅亡後、間髪を入れずにイタリアに侵入してきたのはランゴバルド人でした。ランゴバルド王国時代(568年〜774年)、覇権競争相手の東ローマ帝国との境界近くに位置していたピストイアは、重要な戦略的な役割を担い、国王の代理である副王の直轄地となって発展していきます。
 1105年、ピストイアは自由都市となり、1117年には自治を守るための市民法が定められました。これは中世自治都市の市民法としてイタリア最古のものとされています。
 この頃から教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)の抗争がピストイアの命運を握り始めます。ピストイアは中世の主要な皇帝派の都市として、長い間、ピサおよびシエーナと同盟関係を結んでいました。そのなかで、主要な交易路の結節点に位置していたピストイアは、旺盛な商業活動を内包し、富と権力を手に入れた名家を輩出しながら、銀行・金融業で名を馳せる存在になっていくのです。この時期がピストイアの絶頂期と考えられています。
 しかし1306年、いつもの敵、フィレンツェとルッカの軍隊に包囲されたピストイアは、11ヶ月に及ぶ長期戦の末に占領され自治を失います。血で塗られた数多くの反抗が時折発生するなか、自治の喪失とフィレンツェによる統制、さらには教皇派内部の白派と黒派の抗争によって、14世紀のピストイアには社会的・経済的な危機が絶え間なく生まれていきます。この白派と黒派の教皇派内部の派閥闘争は、ピストイアからフィレンツェに伝搬し、トスカーナの残りの地域に広がって、ダンテをその渦中に巻き込んだのはご承知のとおりです。
 メディチ家によるトスカーナ大公国(1569年〜1860年)の誕生によって、ピストイアに明白な変化が生まれます。都市構造の更新と刷新という偉大な時節が開かれ、ピストイアはふたたび政治的・文化的に重要な結節点となって、そこにクラブやアカデミーが生まれ、活発な文化・芸術活動が展開されていきます。
 1737年、メディチ家を継承したロレーヌ家が到着。改革の旗手ともいえるロレーヌ家の登場によって、18世紀後半以降、ピストイアだけでなくトスカーナ全体は、意義深い社会的・文化的・経済的な急激な向上を経験することになります。19世紀の鉄道の敷設はピストイアに工業の発展をもたらしました。
 1861年、ピストイアは他のトスカーナの都市と同様にイタリア王国に編入され、1925年にはピストイア県の県都となります。

 以上、wikipedia等を参照しながらピストイアの歴史のおおまかな流れを整理してみました。といっても、これはほんの断片の寄せ集めに過ぎません。都市としての二千数百年の歴史は、簡潔にまとめるにはあまりも複雑であるわけです。複雑さを強調してもはじまりませんので、フォトアルバムをよく見ていただくためのいくつかの情報を、以下に追加しておきましょう。
 そこでまずピストイアの中心にある広場についてです。いくつかある中で一番おおきいのがドゥオーモ広場。市庁舎、大聖堂、鐘塔、旧司教館、洗礼堂などに囲まれたこの広場はローマ時代からピストイアの核心として機能してきました。10世紀以降、大聖堂前は市場として利用され、その市場としての歴史はピストイア最古とされています。現在も毎週、水と土曜日に市が開かれていて、訪れた日がちょうど土曜日、その庶民風のにぎわいと大聖堂の対比に嬉しくなると同時に、ここに人間が居るのだという確かな感触を実感したものです。
 ドゥオーモ広場のすぐ西に位置するやや小振りな「サラの広場」と、そこからこぶ状につながる「野菜の広場」は特徴的な歴史と性格を持っています。「サラの広場」はランゴバルド王国時代(8世紀)にサラが面していた広場です。サラとは市の責任者と国王代理が詰めていた宮殿を指し、その時代、ここが市経営の中心地でした。自由都市の時代(11〜13世紀)になると「サラの広場」は食料市場と小さな職人の店を配した交易と商売の拠点になっていきます。そして16世紀後半には「サラの広場」を拡張するかたちで「野菜の広場」が造られるのです。この性格は現在までも受け継がれているようで、土曜日黄昏時の驚くべき賑わいを撮った下の写真は、この両広場とその界隈でのものです。
 続いてピストイアの都市壁について。はじめに、残存する都市壁の配置状況を図示しておきましょう。都市壁は3回改築されていますが(ローマ時代を含めると4回)、この切れ切れに配置された都市壁は15世紀の最後のもの。このとき、4つの都市門に防禦のための稜堡が追加されています。19世紀中葉になって都市門は夜も開放されるようになり、そのかわり外部からの通行者に厳しい通行税を課すこととしました。しかし1909年に通行税が廃止されてから、都市門は単なる鈍重な存在とみなされるようになり、1910年から1925年にかけて都市門は徐々に解体されていくのです。その結果が今日の状況なのですが、残存した都市壁は建物や樹木に隠れて、その存在感はさらに断片的になっているようでした。
 ところで、ピストイアがピストルの語源になったという説があります。1540年ころ、ピストイアに住む銃工が短銃を発明したのだというのです。少々物騒な話ではありますが、ピストイアの辿った歴史を振り返ればそれもあり得ること、この点に引きつけられるかたちで、ピストイアに漂っていた一種の荒々しさを思い起します。と同時に、短銃の発射にもたとえられるような、鋭くきらめく感性もそこにはあったような気がするのです。
 広場、要塞施設のほか、教会にもできるだけ多く足を運びました。訪問日が土曜日と日曜日、訪れた教会のかなりでミサが執行されていて、その内部をくまなく見て回るというわけにいかなかったのは残念なところでしたが、逆に雰囲気はより濃厚になっていたかもしれません。筆者が体験した多面的な様相を見せるピストイアの魅力を共有していただければさいわいです。

*写真番号のハイフン以下8桁の数字は、撮影日時(現地時刻)◯◯月◯◯日◯◯時◯◯分を表示しています。