シエーナ Siena
紀元前8世紀から同3世紀のエトルリア文明期、エトルリア人は耕作に適さなかったトスカーナの地を灌漑しながら開拓を進め、丘の上にうまく防御された要塞都市を建設してイタリア中部の様相を一変させていきました。シエーナもトスカーナの他の都市同様、エトルリア人が最初に居住した都市です。その詳細は詳らかではないものの、ともかくシエーナがエトルリア文明をもとに発展していった都市であることは疑いありません。
ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの治世になって、シエーナはセーナ・ジュリア(Sena Julia)と呼ばれる都市として整備されます。しかし、ローマ時代にシエーナが栄えることはありませんでした。主要な街道から離れ、そのため交易の機会が得られなかったからです。孤立した都市には4世紀までキリスト教が伝搬せず、シエーナが繁栄を見るのはロンバルド人がシエーナ一帯を侵略してからのことです。
6世紀にロンバルド人がトスカーナを占領した後、ローマとイタリア北部を結ぶ主要な古い街道(ティレニア海沿いのアウレリア街道とトスカーナを縦断するカッシア街道)はビザンツ軍の攻撃にさらされるようになり、ロンバルド人はシエーナを通るより安全な街道を使って交易を行うようになります。こうしてシエーナは交易の拠点として繁栄し、ローマへ往来する巡礼者の絶え間ない流れは、その後数世紀にわたりシエーナに様々な収入源を提供していくことになるのです。
こうして歴史は、シエーナ共和国の樹立(1167年)、ライバル、フィレンツェとの覇権をめぐる抗争(1260年モンタペルティの戦い、1269年コッレ・ヴァル・デルサの戦い)、シエーナ共和国の終焉(1555年)、カトー・カンブレジ条約によるトスカーナ大公国への編入(1559年)と推移し、以後、20世紀のイタリア統一までシエーナはトスカーナ大公国領にとどまります。
シエーナの最大の魅力はなんといってもカンポ広場でしょう。そこでカンポ広場を見てみますと、その位置が決定的な要因として働いたと思われます。シエーナの市街地は尾根部分に展開していった結果、北を上に見た時、Yを上下逆にした形になっていて、カンポ広場は逆Y字形の中心点に接し、そこからゆるやかな谷に向かって南側(下)に広がっています。カンポ広場が他に例を見ない壮麗な広場に整備される第一の要因は、この位置関係——三方向に広がる市街地のまさにここしかない中心点——にあったのは疑いないところです。おまけに広場に接する脊梁街路はローマとフランスを結ぶフランチジェーナ街道(Via Francigena : フランスから来る道の意)として機能していました。
広場のあたりは、はじめ、雨水を流す場所として開墾されたようです。1169年の広場についての最初の記述には、広場の北端から広場の南端をさらに南に下った、現在のマーケット広場までの土地を自治体シエーナが購入したことが書かれています。
貴族による“24人統治”(1236年〜1270年)の間、カンポ広場となるスペースは共進会や市場のために使われていましたが、1262年に制定された広場についての法律は、建物の開口部をマリオン式(縦仕切り付き)に限ること、バルコニー建築の禁止、12のアクセス道路の実現を謳っていて、広場の環境を改善して公共的な祭典のために利用しようとする意図が伺えます。
“24人統治”を受け継いだ中産階級の市民による“9人統治”(1287年〜1355年、“24人統治”から“9人統治”への移行は、皇帝派=ギベリンから教皇派=ゲルフへの移行でもありました)の政府は、広場を中立不偏の市民の場所として整備していくことに着手します。その皮切りは広場南端中央に面する市庁舎の建設でした(1298年〜1310年)。これが市庁舎前面広場整備の起爆剤となって、13世紀の終わりには広場内の民間建物の買収が進められ、14世紀初頭には広場の拡張と宮殿、礼拝堂、関税局を含む既存建物の改修工事が始まります。さらにマンジャの塔の建設(1325年〜1333年)、広場床面のレンガ敷き工事完了(1348年)と続き、カンポ広場は一応の完成をみます。
広場のスカイラインと空間構成について、広場建設の間、シエーナ政府は、周囲の建物のファサードと高さの標準化による広場空間の輪郭の統一を図るための法律を徐々に制定していきます。壁面を揃えて広場を囲う建物がゆっくりと現出していく状況のなかで、周囲から突き出ていた聖ピエトロ・ パオロ教会の全面的な取り壊しは、広場の空間構成上、大きな意味を持つこととなりました(この教会は市庁舎と対面するふたつの開口部道路、聖ピエトロ通りと聖パオロ通りの間に建っていました)。こうして平面としても立体空間としても、カンポ広場は他に例をみない人間の場所として作り上げられていくのです。
カンポ広場の歴史を振り返ると、それが周到にして壮大な都市計画としてあったことが、あらためて良く見えてきます。現代においても再開発と称して、規模において同等、あるいはそれ以上の都市計画は存在するかもしれませんが、達成されたものの大きさを鑑みる時、忸怩たる思いにかられるのは私だけでしょうか。
カンポ広場と並んでシエーナを突出した都市にしているのは大聖堂の存在です。ファサードの美しさはよく語られるところですが、その内部に入ってどこに視線を合わせていいのか困惑したことを思い出します。というのは上から下まで、右から左まで、目に入る大聖堂内部のすべてが美しすぎたからです。数々の教会内部での経験のなかでもそれは特異な出来事でした。この感じは以下の写真からは伝わらないでしょうが、人間と人間を包む空間を考えるうえでのひとつの衝撃であったことは確かです。
前口上が長くなりました。以下にシエーナ滞在の二日間で見たものを全部お伝えしようと思います。