トスカーナの歴史

●アペニンとヴィッラノーヴァ文化
エトルリア文明期以前の青銅器・鉄器時代はギリシャ初期と同様な関係にある。トスカーナ地方には紀元前2千年紀(おおよそ紀元前1350〜1150年)の、いわゆるアペニン文化を築いた人々が居住し、彼らはエーゲ海を舞台とするミノア文明やミケーネ文明と交易していた。この後、ヴィッラノーヴァ文化(紀元前1100〜700年)がトスカーナに現れ、それは首長制に引き継がれていく。エトルリア文明が興るまで、ヴィッラノーヴァ後期には都市国家が(ギリシャとエーゲ海のそれと並行して)発達していく。

●エトルリア文明
交通インフラの整備、農業と鉱業の生産活動、生き生きとした芸術の創造を伴う最初の本格的な大規模な文明を、エトルリア人がこの場所で築きあげる。エトルリア文明は紀元前8世紀から、北はアルノ川、南はテヴェレ川の間の地域に広がり、同7世紀から同6世紀の最盛期には、アルノ川以北、ティヴェレ川以南にも拡大浸透していったが、紀元前3世紀にローマ人によって吸収され消滅した。

●ローマ時代
エトルリア文明を吸収したローマは、ルッカ、ピサ、シエーナ、フィレンツェ等の主要な都市を、平和を保証しつつ、新技術の投入と新開発を行ないながら構築していく。それらの開発は、既存道路の拡幅、上下水道システムの導入、公的また私的な建物の建設を含んでいたが、こうした多くの構築物は気象による侵食で破壊されてしまっている。西洋ローマ文明は5世紀に崩壊、その後、トスカーナは短期間、東ゴート王国、さらにビザンツ帝国(東ローマ帝国)の領地となるが、569年以降、ランゴバルド王国の支配下に入り、ルッカはトゥーシア公国の首都となった。

●中世
トスカーナはローマとフランスを旅する巡礼者の中継地となり、これら旅行者のために求められる食料と宿が、教会と宿屋を囲む共同体の成長を促し、結果、トスカーナに富と発展をもたらした。12世紀から13世紀の間、ゲルフとギベリン——北イタリアにおけるローマ教皇支持派と神性ローマ皇帝の支持派——の対立がトスカーナの人々を分断することとなったが、両派の対立は、アレッツォ、フィレンツェ、ルッカ、ピサ、シエーナといった強力で裕福な都市国家の成長をもたらす元となった。これら都市国家のバランスは、それぞれが持つ長所によって保たれていた——港を持つピサ、銀行業のシエーナ、銀行業と絹のルッカ——。しかしルネサンス期までにはフィレンツェがトスカーナの文化の中心地になっていく。フィレンツェの成長する富と力から利益を得たひとつの家系が、そこで指導的な働きをしたメディチ家であり、ロレンツォ・デ・メディチはメディチ家の最も有名な人物で、当時の遺産は今もなおフィレンツェの莫大な美術品と建築のなかに見ることができる。

1348年からペストの流行がトスカーナを襲い、結局、トスカーナ人の50〜60%が死亡したといわれる。フィレンツェは、流行から半年で人口の3分の1を、最初の1年間で人口の45〜75%を失ったという。1630年にフィレンツェとトスカーナは再度、ペストの流行に見舞われている。

●ルネサンス期
トスカーナ、特にフィレンツェはルネサンス発祥の地と見なされている。「トスカーナ」は、政治的な実体であるよりも、言語的、文化的、地形的な概念にとどまっていたが、15世紀になってフィレンツェはトスカーナに覇権を拡大していく。1384年のアレッツォ併合にはじまって、1405年にピサを取得、翌1406年、そこでの反乱を抑圧し、1421年にはリヴォルノも同様に取得した。

1434年以降、フィレンツェ共和国はフィレンツェを首都として、ますます君主的になったメディチ家によって支配されていく。はじめ、コジモ、痛風病みのピエロ、不運なピエロといったメディチ家の人物のもとで共和国の形態は維持され、メディチ家はなんの称号も持たず、通常は公式な事務所さえもなしに統治していった。そして、これら統治者がフィレンツェのルネサンスを主宰していくのである。

フランス軍の侵攻に対する対処を誤って市民の怒りを買い、1494年、メディチ家はフィレンツェを追放される。しかしジョヴァンニを筆頭とするメディチ家は、ハプスブルク家の援助を得てスペイン軍と共にフィレンツェに復帰し、その支配を再び確立する。翌1513年、ジョヴァンニは教皇レオ10世に即位し、メディチ家はフィレンツェとローマ教皇領を支配する門閥となった。

以降、フィレンツェは教皇の代理によって支配されていくが、1527年、市民はフィレンツェ共和国の再興を宣言する。しかし同年、レオ10世の後を継いだ教皇クレメンス7世は、フランスと同盟を結んだことで神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の報復を受け、ローマ略奪の大惨事を招く。1530年、クレメンス7世と神聖ローマ皇帝カール5世は和解し、両者はアレッサンドロ・デ・メディチを最初の正式な世襲の支配者に任命して、メディチ家はついに正式な君主となった。

シエーナは1555年まで、フィレンツェ共和国と覇権を争うかたちで独自の共和国体制(シエーナ共和国)を築きあげ、15世紀の間、独自のより保守的な性格を持ったシエーナ・ルネサンスを謳歌していた。ルッカは、市民の意向によってトスカーナ大公国に入る1847年まで、独立した共和政体を維持している。

●近代
フィレンツェ公アレッサンドロを継承したコジモ1世は、1537年、トスカーナ大公となると、1555年にシエナを獲得し、1569年にはトスカーナ大公国が誕生する。やがて地中海貿易の衰退などによってイタリア自体国際的地位が低下し、トスカーナ大公国も弱体化していくなか、1730年代のポーランド継承戦争は、トスカーナの支配をメディチ家からロレーヌ公にして神性ローマ皇帝フランツ1世に移転する結果をもたらした。ナポレオンによる神性ローマ帝国の解体にともない、トスカーナは神性ローマ帝国の後継、オーストリア帝国に受け継がれるが、1850年代のイタリア独立戦争により、新たに誕生したイタリア王国に統合されていく。

ムッソリーニのもと、トスカーナは国家ファシスト党地方支部の支配下に置かれ、ムッソリーニの失脚とイタリア王国の再樹立に続き、北イタリアにはナチス・ドイツの支援によって、ムッソリーニを国家元首とするイタリア社会共和国が建国される。しかし社会共和国は2年足らずで終焉を向かえ、イタリア王国からイタリア共和国へと変遷していくなかで、トスカーナはイタリアの文化の中心として、もう一度、栄えていくことになる。