街路研究会
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トスカーナの歴史

ピサ Pisa

 斜塔の存在であまりにも有名なピサ(「ピーサ」または「ピーザ」がより正確)、その歴史は、大きくは海運都市としての栄光と挫折というかたちで描かれています(ほぼ英語版の逐語訳と思われる日本語版Wikipediaの「ピサ」の項などをご参照ください)。ピサの起源については諸説ありましたが、1991年、斜塔の北東300mでのサッカースタジアムの工事中にエトルリアのネクロポリスが発見されたことから、ピサはエトルリアの一都市国家として生まれ、発展していったのは確実のようです。
 大聖堂と斜塔(鐘楼)、それに洗礼堂とカンポサイト(墓所)が雄大に配置されたドゥオモ広場(「奇跡の広場」)はピサの象徴であり、世界遺産にも登録されています。その存在はあまりにも突出していて、ピサの印象をほぼ独占しかねないほどのものですが、都市壁で囲まれた市街地の中心ではなく、市街地の端、都市壁に沿って配置されていること、さらに実生活と深く関わって現実を刺激し高揚させる場所というより、テーマパーク風な雰囲気を漂わせる場所になっていることから、「奇跡の広場」の特殊性が浮かび上がってきます。そこでピサにおいて「奇跡の広場」はいかにして生まれ、今日の形態を保持してきたのか、イタリア語版Wikipediaの該当項目を適当に説明を加えながら紐解いてみることにします。

 広場の建物は中世に生まれたわけではありません。そこはすでにエトルリア時代から、間違いなくローマ時代にも建物用地として利用されていました。その昔、今ははるか北に水路を変えているセルキオ川は広場の北側近くを流れ、広場の東には河港がありました(つまりピサはセルキオ川とアルノ川に挟まれた潟に形成されたことになります)。そして土地全体は河港方向に傾斜していました。大聖堂とカンポサイトの間からは、ローマ時代のふたつ家屋の基礎と床モザイクが見つかっています。
 次いで、おそらくローマ帝国の没落と人口の縮小にともなって、広場は民間から宗教的なものへ、その利用形態を変えていきます。この時に傾斜地は平坦に均されたのでしょう、広場全体のなかのいくつかの墓はランゴバルド王国時代に遡ります。中世前期の10世紀頃、聖母マリアを祭ったであろう教会が広場に建立されます。この教会は洗礼堂を備えていました。最近の考古学的発掘は、そうした教会がいかに実際に存在したか、そして未完成に終わったかを明らかにしています。カンポサイトの中庭に保存されている八角形の建物の基礎は、この最初のカテドラルの洗礼堂と思われてきましたが、建造年代が14世紀であることから、それはカンポサイト自体の異なった建設段階の一部分であろうとみなされています。
 われわれが知る広場は、偉大な聖母マリアに捧げられた新たな市のカテドラルが建築される1063年に、その姿をあらわし始めます。当時、広場は都市壁の外に位置していました。このため都市壁の拡張が計画され、1156年に広場を囲う都市壁が出来上がります。その3年前には、カテドラルの対向位置に、カテドラルのファサードと同じ幅の直径を持つ新しい洗礼堂の建設が始まっていました。そして市域への主要な出入り口のひとつとして設計されたライオンの門が、広場北西隅の3つの塔で防御された小さな区域に配置されていました。
 1173年、今度は鐘楼(斜塔)の建設がスタートします。この世紀の終わりには鐘楼南側で司祭公館の建築工事が始まり、こうして広場の東側が閉じられます。続いて、1257年に広場の南に建築された精霊病院、また広場の北、都市壁近くで1277年に建築が始まったカンポサイトによって、広場の全体が囲まれていくのです。こうした旺盛な建築活動は、海運都市国家ピサの隆盛と軌を一にしています。
 広場の様相はメディチ家支配の時代に劇的に変化します。ライオンの門は永続的に閉じられ、門の前面はユダヤ人共同体のための墓地に供されます。そして精霊病院の前面道路が突き当たる広場の西に、その名のとおり新たな新門が造られます。新門はオリジナルのゴシック・スタイルを失い、完全にフィレンツェ風なものとなりました。
 メディチ家とロレーヌ家の時代を通して、新たな別の建物が広場の空き地に建てられていきます。もう一つの司祭公館が鐘楼の北側に建てられ、その南側には教会が増築されます。結果、鐘楼それ自体がふたつの隣接した建物の壁で囲まれてしまいます。洗礼堂の西側には庭師の家屋とそれに付属する庭の垣根がありました。また広場の西、都市壁の近くにはずっと前から関税局とその庭があり、北のカンポサイトとライオンの門のあいだには葬儀屋の建物が建っていました。カテドラル南側の区域にも、そのころは他の小さな建物が点在していたのです。
 19世紀前半のトスカーナ第一の建築家、アレッサンドロ・ゲラルデスカの介入の後——彼は今日の広場の形成に貢献した人物といえます——、19世紀の終わりになって広場の復元が決定されます。こうして、メディチ・ロレーヌ治世に出現し広場を彩ったすべての建物は、徐々に解体され、消滅していくことになるのです。
 広場に加えられた最近の改変は、わずかにファシスト党時代の20世紀初頭になされたものにとどまります——鐘楼北の芝生内でのローマのメス狼像の建設、戦没ファシスト闘士を記念する広場西端での17株のイトスギの植樹、新門両サイドの二つの新たな門の開通——。
 さらに2007年、国際コンペの結果、精霊病院に隣接する区域について、PIUSS(持続可能な都市開発の統合計画)に含まれる19の内容からなる最も重要なプロジェクトが、デイヴィッド・チッパーフィールドに委託されることになりました。その履行は2015年までに完了する予定です。

 どうでしょう。モニュメンタルな場所の構築と、俗化していくモニュメンタルな場所の意識的な回復という大きな流れが読み取れます。つまり、奇跡の広場はピサ人の美意識の結晶として存在しているわけです。
 さらにピサの現状を読み解くうえで忘れてならないと思われるのは、第二次世界大戦時の内戦状態(ローマ以北のイタリア社会共和国vsローマ以南のイタリア王国)のなかで甚大な損害を被った事実です。以下にまた、イタリア語版Wikipediaの該当項目から抄訳してみます。

 ファシスト党政府による弾圧が行われていたなか、第二次世界大戦がピサをきびしく襲った。1943年8月31日、市はアメリカ軍の激しい爆撃を受ける。特に駅周辺地域と海辺の損傷が大きく、ほとんど灰燼と化し、市のおよそ四分の一が損害を受け、952人が死亡、1000人が傷を負い、961の建物が崩壊した。
 アメリカ軍司令官にこうした大掛かりな爆撃を仕向けさせたのには、二つの異なった理由があった。ひとつは、鉄道の重要な結節点として、ピアッジョ(自動車メーカー)やサンゴバン(ガラス製造)といった軍事転用工場を周囲に持つピサの、その鉄道施設を破壊すること、第二に、停戦交渉の決定的な段階にあって、イタリア政府に強いシグナルを送ることであった——実際、その3日後に交渉が妥結する——。
 これが最も大きな爆撃ではあったが、ピサの被爆はこれだけではない。1944年の夏に解放されるまでに受けた爆撃は54回を超える。それらは機関銃と大砲の射撃を伴い、結果、およそ4万人が市域に留まるなかで1738人が死亡、多くの建物が崩壊し損傷した。
 1944年6月の始めから、ピサ県ではナチスによる大虐殺と処刑が行われ、記録によれば、徴兵忌避による射殺を含む大虐殺の犠牲者は350人にのぼる。
 1944年夏、連合軍の前線がピサのアルノ川に達し、南に連合軍、北にナチス軍がアルノ川を挟んで対峙して激しい銃撃戦が展開される。このため市の歴史的建物が受けた損傷は甚大なものとなった。6月21日から23日にかけておよそ30回の最悪の爆撃があり、川にかかる橋が破壊され、翌月にはドイツ軍の地雷が、要塞、時計台を持つプレトリオ宮殿、メッツオ橋、その他の市の橋を吹き飛ばした。
 7月、およそ1,500人が精霊病院やカテドラルがある奇跡の広場に避難する。それは、それらモニュメントの名声が、双方の兵士を別の場所へ誘導させるだろうとの望みからであった。
 7月27日の午後遅く、連合軍の大砲がカンポサイトの屋根に打ち当たった。木製のトラスは焼け、鉛板が溶け始める。カテドラルに家族を避難させていた数人の勇敢なピサ人が現場に直行するものの、消火の水はなく、呆然と見つめるだけでなす術がない。砲弾は続き、溶融した大量の鉛は大理石の床と、内壁沿いに陳列していた作品群の上に落下していく。ちょうどそこを行進していたひとりのドイツ兵が歩みを止め、屋根に登って延焼を食い止めようとするも、うまくいかない。夜をとおして屋根の断片は落下して、その下の美術品を傷つけ、翌日にはフレスコに損害を与え、建物の扉を焼き尽くした。次の日、この時期に近くの病院で死亡した人を埋葬するために、誰かによって古代の墓標が割られるという、付加的な損害が発生している。
 1944年9月2日に解放されたとき、ピサの街は数千人の市民と数十の最も貴重なモニュメントからなる孤児のような存在になっていた。ナチスによって吹き飛ばされた施設に加え、多くの歴史的建物から広範囲にわたる損害が報告された。当時の教育長、ピエロ・サンパオレージの時宜を得た仲介によって、移動可能な多くの美術品がフィレンツェと他の二都市に運び出されていたことは、不幸中の幸いであった。
 その年の秋、50,000にも上る部屋が取り壊されて居住不能となり、およそ18,000人の市民が水と電気とガスを失ってホームレスとなった。鉄道をはじめ都市交通は数ヶ月のあいだ機能不全に陥ったままだった。戦争の傷跡が消えて都市が再建されるのは、それから数10年の後のことである。

 奇跡の広場だけがピサではないはずですので、ピサを離れる日の午前、広場を起終点として市街地を周回してみました(経路を地図に表示しています)。空襲を受けたためでしょうか、町並みにやや統一感が欠けるうらみがあったのは事実ですが、戦時の歴史を知ると、それも愛おしいものに思えてきます。そして、短時間の歩行ではありましたが、そこでたくさんの教会に出会えたことは、ありがたくうれしいことでした。この気持ちはたんに歳をとったせいだとは思えません。いずれ都市と教会の関係について、じっくり考えてみましょう。

*写真番号のハイフン以下8桁の数字は、撮影日時(現地時刻)◯◯月◯◯日◯◯時◯◯分を表示しています。