街路研究会
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ルッカ Lucca

 ルッカもまた私たちの想像をはるかに超える長い歴史を持った街です。紀元前180年頃、ルッカはローマの植民都市になるのですが、それ以前の最初の都市を築いたのは誰なのか、一説によれば、イタリア半島北部から地中海北岸地域に住んでいた先住民族のリグリア人であり、他説によれば、リグリア人居住の痕跡は認められるものの、そもそもがエトルリア人だということになります。いずれにせよ、その都市としての歴史は二千年をはるかに越します。
 ルッカの現在に至るまでの歴史は、簡潔にまとめるには、あまりにも輻輳していますが(ルッカの歴史に興味のある方は日本語版、あるいは英語版、またはイタリア語版 wikipedia のルッカの項をご参照ください)、そのなかで特記すべきは、ヴェネチアやジェノヴァと並んで、1160年以降、およそ500年にわたり独立した共和政体を保持してきたという点でしょう。
 ルッカの歴史がルッカを作ってきたのはまぎれもない事実として、歴史がリアルな現実となって実生活に入り込んでいるところはルッカを語るうえで強調してよいことと思われます。
 そのひとつの例は、1世紀末のローマ時代の円形闘技場を再利用したアンフィテアトロ広場(円形闘技場広場)です。建物に囲まれたこの円形の広場を体験することがルッカ訪問のひとつの理由であったわけですが、ある種、壮麗な空間を想像していた筆者の期待はいとも簡単に裏切られることになります。つまり、権力の象徴というような側面は微塵もなく、都市という共同体の構成員が共有する大広間として、ただひたすら機能していたように見えたのです。これは周囲の建物の種類にも関係しているでしょう(つまり権力を象徴するような建物がない)。筆者が訪れたときは、広場全体に園芸市場が展開されていました。
 ローマ時代の円形闘技場の消長について wikipedia に興味深い記述を見つけました。各地の円形闘技場の活用は財政の窮乏、キリスト教からの批判により徐々に下火になり、326年、コンスタンティヌス1世の勅令でその廃止が決定されます。使用されなくなった円形闘技場は要塞や倉庫、また牢獄などに再利用されたりしますが、一方で経済の発展と人口の増加に伴い、円形闘技場の周囲に新しい街区が建設され、闘技場の建築部材はそこでの新・改築の建物に転用されていきます。こうして19世紀になると、ルッカでも円形闘技場のアリーナの楕円は跡形もなくなっていたといいます。ルッカでは1830〜33年の再開発でアリーナ部の楕円形が一時的に復元されますが、広場が現在の状態に確定するのは1972年になってからのことです。
 都市壁に囲まれた市域の街路構成にも特徴的な面が発見されます。特に城壁に囲まれた市域の西側、ローマ時代に起源を持つ区域で明瞭なこととして、街路は碁盤目状に形成されています。ローマ時代における道路構成の基本的な作法は、カルド( Cardo )と呼ばれる南北方向道路と、デクマヌス( Decumanus )と呼ばれる東西方向道路で地域をグリッド状に覆うことでした。これがそのまま残っているわけです。現代的と思われる道路の配置方法が実はローマ時代に遡るというのは興味深い事実として、その現代的な均質な道路配置のせいでしょうか、地図を片手にルッカの街を散策していて、迷子になったことを思い出します。
 ルッカの歴史がリアルな現実となっている例の最たるものは旧市街地を囲う11の稜堡を持つ都市壁の存在でしょう。高さ12m、土台幅30mの壁が周長4.2kmにわたって市街地を囲っているのは壮観ですが、築後400年近くを経て完璧といっていいほどに保存されているのは、その歴史的意義を重視した結果であると同時に、ルッカ人の現代生活に不可欠の存在になっているからだと思われるのです。
 ルッカの都市壁はローマの植民都市となった紀元前2世紀まで遡ります。当時は現市域西側の矩形の地域を囲っていて、円形闘技場は都市壁の外に存在していました。12世紀以降、市域の拡大に呼応するかたちで三度にわたり都市壁の拡張工事が行われ、現在の姿は1504〜1645年の最後の工事の結果です。
 実はこの壮大な都市壁、ローマ時代や中世のそれと違って、一度も包囲攻撃を受けたことがなく、したがって一度も都市壁本来の役割を果たしたことがありません。戦争の抑止力として働いたのかもしれませんが、実際に機能したのは一回きり、それも市街地北を東西に流れるセルキオ川が1812年11月の大氾濫したときに役立っただけ、歴史の皮肉と言うべきでしょうか。
 “軽快”な都市生活を謳歌している人びとにとって、ルッカの都市壁は鈍重な存在にしか見えないかもしれません。たしかにそれは軽快さとは程遠い存在でしょうが、いそがしい現代人に、まさに現代的な最先端の、しかも普遍的な機能を提供している事実を発見して、筆者は心地よい感銘を受けました。
 高さ12mのレンガ積みの都市壁の内側は壁上端まで台形状に土盛りされ、円環を形成する台形上辺部分は緑化を施した遊歩道になっています。歩行の場所として完全に整えられた、何の障害物もない、わが街を囲ってループ状に続く4.2kmの遊歩道、どこからアクセスしてもいいし、どこで降りてもよい、片方にわが街を見下げ、他方にわが街の外を遠望する、そこは散策に、ウオーキングに、ランニングに、またサイクリングに理想的な環境となって、現代人の体と心を芯からから癒やし続けている、何と未来的であることでしょう! 都市の歩行を考える筆者にとって、それはひとつの啓示といっていいものでした。
 この都市壁上部の遊歩道、現代的に表現すれば立体環状遊歩道ということになりますが、この表現こそ、現在のわが国おいては自動車道路について使われている事実に注目してよいでしょう。さらにまた、ルッカの立体環状遊歩道は建物で囲まれて姿を現す街路とは違っています。いわば反街路でありながら、街路と密接に関係して都市生活をきわめて合理的にうるおしている、この事実は未来の都市を構想するものにとって多くの示唆に富んでいます。
 ルッカ駅に到着して地図を片手にホテル、といっても旧市街地にある古い建物を利用したB&Bに向かうと、そこで迎えてくれた快活なホテルのマスターは、城壁内での教会の多さ——100を超す教会の存在を力をこめて説明してくれたものです。たしかにそこには沢山の教会があり、筆者の内面は大いに癒されることになるのですが、そのごく私的な一例を紹介させてもらうことにしましょう。
 アンフィテアトロ広場の近くに聖フレディアーノ教会があります。ファサード上部に巨大なモザイク画を掲げる、ルッカとしてはやや特徴的な教会です。訪問した4月26日と27日、ある聖人の祝祭が当の教会で催されていました。ミイラとなって安置されているその聖人が誰なのかも知らず、内からの欲求にしたがって、異邦人の筆者は多くの参拝者に混じって参列させてもらいました。そうしているうちに、空間とそこでの人間活動が放射するオーラを受け取ったからでしょう、少々鬱気味だった筆者の内に温かいものがふたたび循環し始めたのです。帰国して調べたその聖人とは聖女ツィータ(1212年〜1272年4月27日)、家政婦の守護神、失くした鍵を見つける際にしばしば呼び出されるという聖女ツィータの命日を記念する祝祭であったわけです。
 12歳で家政婦になった聖女ツィータは、あまりの勤勉とあからさまな善良性ゆえに、雇い主や仲間の家政婦から長い間にわたって虐待されるのですが、やがて彼女の変わらぬ敬虔深さは周囲の人間を信仰へと動かしていきます。彼女は自分の仕事を神によって配分された務めだと考え、贖罪の一環として、あらゆる事柄にかんして、それらが神によって彼女に任されたこととみなし、主人の言いつけに従ったのです。ここまで書いて、これが13世紀の話だとしても、現代人の傲慢さをあぶりだすかのような聖女ツィータの姿勢に筆者は少なからぬ感銘を覚えます。
 ルッカはプッチーニ生誕の地であり、またダンテが亡命者として多くの年月を過ごした街です。そうした偉人たちの足跡の気配が残っていたかもしれません。では筆者が延べ三日間で見てきたルッカの街をお楽しみください。

*写真番号のハイフン以下8桁の数字は、撮影日時(現地時刻)◯◯月◯◯日◯◯時◯◯分を表示しています。