コッレ・ヴァル・デルザ Colle Val d'Elsa
コッレ・ヴァル・デルザ(コッレ・ ディ・ヴァル・デルザ Colle di Val d'Elsa とも、以下では簡略化して「コッレ」と書きます、コッレ=Colle は丘の意)はシエナの北西約20㎞に位置し、現在ではクリスタル・ガラスの製造で国際的に知名度の高い都市です。
考古学的な発見から、この地域に人が住み始めたのは少なくとも紀元前4万年とされていますが、コッレについての最初の記述が現れるのは、他のトスカーナの都市のように10世紀になってからです。しかしエトルリアの連合都市ヴォルテッラの東20㎞という地勢からも推測されるように、エトルリア文明(紀元前8〜3世紀)の痕跡は明らかで、コッレの村落、ドメタイアやレ・ヴィッレではエトルリア時代のネクロポリス(共同墳墓)が発見されています。
さて、12世紀の終わりに向けてコッレは徐々に政治的自立性を高め、独立した自由都市の形態を整えていきます。記録によれば、市の法律が1307年に初めて制定されます。そしてエルザ川の存在が都市としての発展に大きく作用しました。
13世紀初頭からエルザ川を源とする水路が平地部分に引かれ、水源を必要とする製粉所、紙漉き場、縮充施設のような産業がそこに台頭していって、市域は丘の上からイル・ピアーノと呼ばれる平地部分まで拡大していきます。これは交易上有効な備えとなり、結果、エルザ川からの水路が、幅広い産業の発展を促進しながら、コッレの経済活動を決定する要因として働くことになるのです。
歴史上、コッレは数多くの戦場の舞台となっています。大きな理由は、当時覇権を競っていたフィレンツェ(教皇派=ゲルフ)とシエーナ(皇帝派=ギベリン)の勢力範囲の境界に位置していたからです。なかでもコッレ・ヴァル・デルサの戦いと呼ばれる1269年の両派の衝突はトスカーナの勢力図に重大な影響をもたらしました。またフィレンツェ領土の防御として行われた1479年のナポリ王軍隊によるコッレの包囲戦では、降伏を余儀なくされて大きな破壊を受け、これは後の要塞化機構のさらなる強化につながります。
16世紀のあいだコッレはフィレンツェの勢力下に置かれていました。しかしメディチ家や市の経営を担っていた地方貴族の後押しで独立性を高め、1569年のトスカーナ大公国の誕生の後には、クレメンス8世が発した教書によって、コッレに新たな教区の司教座が作られます。
17世紀になって、コッレの有力な貴族、ウジムバルディ家はコッレにガラス製造を導入し、これまでの製紙業は新たな製鉄とガラス製造に置き換わっていきます。ガラス製造は鉛ガラスのクリスタル産業へ発展してコッレの主要な産業となり、19世紀になるとコッレはイタリアのボヘミアとして知られるようになります。今日では世界のクリスタル製造の15%をコッレが担っているとのことです。
以上のようにコッレの歴史をまとめてみますと、それが端倪すべからざる都市の歴史であることがわかります。もちろん、筆者の性格からしてこれは訪問後に調べて知ったこと、平地の市街地は1944年に受けた空襲による結果でしょうか、一部を除き統一感に欠けるうらみがありましたが、丘上の最も古い市街地には確かに、積み重ねた歴史の香気ともいうべきものが漂っていたことを思い起こします。
というより話は単純で、筆者が引きつけられたのはグーグルで検索したその都市景観でした。丘上の狭く細長い尾根に形成された都市、その限界性と特殊性から生まれたコッレにしかない都市景観、そこに魅惑され、体感したいと思ったわけです。
実際に行ってみて、わずか数時間の滞在ではありましたが、その景観とともに、細長い敷地にめぐらされた、合理性をとことんまで突き詰めたかのような細街路は、丘上のコッレならではの魅力にあふれたものでした。
このページをご覧いただく皆様にもコッレの魅力を共有していただければさいわいです。