フィレンツェ Firenze
アレッツォは、フィレンツェからアルノ川の上流方向、南東およそ80㎞に位置する人口10万人程の小さな都市、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-1374)の生地として知られています。もっともペトラルカは5歳でアレッツォを離れていますけれども。ペトラルカといえば、リストのピアノ曲、「ペトラルカのソネット第104番」に込められた測り知れない憧憬、魂を根底から揺すぶる憧憬が浮かんできます。そして筆者はペトラルカとリストを通して、人間存在の不思議に思いを致すことになるわけです。
アレッツォは今回訪問したなかで、都市として最も古い歴史を持っています。そこは先史時代から人間が居住した場所であり、紀元前9世紀にはすでに都市を形成し、連邦国家エトルリアを構成する12の都市のひとつとなります。アリティム(Aritim、アレッツォのエトルリア名)と呼ばれたその都市はおそらく、なかでも重要な地位を占めていたでしょう。その証左として挙げられるのが16世紀に発見された
「アレッツォのキメラ像」(紀元前5〜4世紀)です。アレッツォでのメディチ家要塞工事の最中、1553年11月15に発掘されたキメラ像は、その溢れ出る力感によってエトルリア文明の精華のひとつとされ、当時、多くの名匠がアレッツォに集結していたことを示しています。
「アレッツォのキメラ像」(当初はライオン像とみなされていた)はただちにトスカーナ大公コジモ1世のコレクションに加えられ、ヴェッキオ宮殿で一般公開されたのち、ピッティ宮殿の大公自身のアトリエに移されます。個室に置かれたこのキメラ像を「大公は自ら金細工職人の道具を使って磨き上げることに大きな喜びを見出していた」とベンヴェヌート・チェッリーニは自伝で記しています。ちなみにベンヴェヌート・チェッリーニはミケランジェロらと交遊し、後年、コジモ1世の庇護を受けるようになったルネサンス期イタリアの画家、金細工師、彫刻家、音楽家。その奔放な生き方と16世紀のイタリア風俗を生気あふれる文体で綴った自伝は1728年になって公刊され、後にフランスでも知られるようになり大きな話題を呼びます。チェッリーニの自伝に霊感を得たベルリオーズが、歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」を作曲するのは1838年のことです。
さて話を本筋に戻して、エトルリア文明期以降のアレッツォの歴史を概略見ていくことにしましょう。
エトルリア文明後期になると勢力を強めたローマは覇権を広げていきます。ローマの拡張主義に対抗して、アレッツォは近郊の都市、ヴォルテッラ、ペルージャと同盟するのですが、紀元前295年、グロッセート近くのロセッレの戦いで同盟軍はローマに敗北します。ローマの一部になったアリティムの呼称は、ラテン語化されてアッレティウム(Arretium)となります。
アッレティウムはカッシア街道上という地勢から、ポー川流域に向かって拡大する共和政ローマの軍事基地となるのですが、ローマ市民戦争では敗者マリウス側について半ば破壊されてしまいます。勝者スッラは「忠実なアッレティウム」(Arretium Fidens)と呼んで、ここに退役軍人を入植させ、このため、アレッツォのエトルリアの伝統はほぼ根絶やしにされることになります。しかし、エトルリア由来のすべてが消滅したわけではありません。ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの文化面の補佐役として腕を振るったガイウス・マエケナス(メセナの語源)はアレッツォのエトルリア貴族の出身でした。
絶え間ない創意工夫に満ちた活動によって「昔のアッレティウム」は繁栄を続け、アウグストゥスの治世にはイタリア第3の都市にまで成長します。金属加工の中心地となるだけでなく、その色合いによって「サンゴ」と呼ばれたアレッツォ特産の陶器は至るところに輸出され、街は潤い、市民の文化活動は大きく盛り上がります。そして劇場、浴場、巨大な円形闘技場といった多くの公共建築物が出現していくのです。3〜4世紀にかけて、アレッツォは司教座都市となり、その名の司教は現代まで途絶えることなく継承されてます。これはイタリアでも例外的なこととされています。
ローマ帝国の崩壊に向かって、帝国の頽廃や外敵の侵入に悩まされるのですが、世俗的な名声とカッシア街道上という好都合な位置によって、中世の暗黒時代においてさえも、アレッツォは確固とした重要性を維持していきます。ゴート族とランゴバルド族はアレッツォの民族的な創作や言語に多大な影響を与え、ランゴバルド族が建設した城や教会は中世アレッツォの基盤となりました。
1098年、アレッツォは司教による支配から抜け出し独立の都市国家となり、1252年には大学を設立しています。一般的に教皇派が強かったアレッツォは皇帝派のフィレンツェと対立する関係にありましたが、フィレンツェ率いる皇帝派連合軍と争った「カンパディーノの戦い」(1289年)では大敗を喫してしまいます。戦いで指導的人物を失ったアレッツォは徐々に衰退し、ついに1384年、およそ3世紀続いた都市国家アレッツォはフィレンツェの支配下に入るのです。こうしてアレッツォの歴史はフィレンツェとトスカーナ大公国の歴史に組み込まれてしまいます。その後、街は経済的、文化的に衰退していくのですが、これが幸運にも中世都心部の保存を保証することになったのは皮肉な結果でした。
18世紀に入ると、アレッツォ南部の湿地は干拓され、マラリア発生のおそれが解消されていきます。この世紀の終わり、ナポレオン率いるフランス軍がアレッツォにも侵入してくるのですが、アレッツォは「ヴィヴァ・マリア」と呼ばれる反フランス運動を展開し、ほどなくして、侵入者にたいする抵抗運動の拠点都市になります。アレッツォが県都となるのはこの事実によっているわけです。1860年、アレッツォはイタリア王国の一部となります。
市の建物は第二次大戦で大きな損傷をこうむりました。1944年7月はじめ、ドイツ軍はアレッツォの手前に迫り、7月16日、イギリスの第6機甲師団によって奪取、解放されるまで、激烈な戦闘が繰り広げられるのです。市の北西にコモンウェルス戦争共同墓地があり、そこに1266人の犠牲者が埋葬されています。
以上、ウイキペディア英語版と同イタリア語版を参照して、アレッツォの歴史をまとめてみました。とはいえ、今日まで三千年にも及ぶ歴史が簡単に記述できるわけがありません。ただただアレッツォの都市としての存在の重みに圧倒されるばかりです。
アレッツォでは一泊したのみ。撮影時間は2012年5月2日の午前10時過ぎからその日の夜8時まで、精力的に動きまわりましたが、アレッツォの全貌を写真に捉えるのに十分な時間だったとは到底言えません。ただ、疲れを知らずにあちこち移動できたのは、旧市街地のコンパクトさとともに、街が発散する吸引力にあったと思われます。大聖堂はちょっと異質だったとはいえ、重厚と洒脱を兼ね備えながら人懐っこい表情を見せる都市景観は浸透力に満ちた魅力的なものでした。それはアレッツォ人が積み重ねてきた歴史の精髄だったろうと思われるのです。