はじめに
2010年11月に行ったプッリャ州街路調査の成果に味を占め、本年2012年の4月下旬から3週間にわたり、イタリア・トスカーナ州の諸都市を巡ってきました。訪問都市はトスカーナ州の9都市【グロッセート(Grosseto)、シエーナ(Siena)、コッレ・ヴァル・デルザ(Colle Val d'Elsa)、ヴォルテッラ(Volterra)、ピサ(Pisa)、ルッカ(Lucca)、ピストイア(Pistoia)、フィレンツ(Firenze)、アレッツォ(Arezzo)】に加え、ウンブリア州の2都市【ペルージャ(Perugia)、アッシジ(Assisi)】とローマ(Roma)の計12都市、したがって表題は正確ではありません。
前回同様、街路と広場と教会が調査の主要テーマであったわけですが、特にシエーナのカンポ広場、その桁外れの雄大さと親密さを兼ね備えたたたずまいに、期待どおりだったとはいえ、おおきな感銘を受けたことをまず告白しなければなりません。それは根源的な癒しをもたらす力に満ちていて、私は都市という存在の偉大さに思いを馳せながら、天国という場所があるなら、ここが天国だと言いたくなったものです。都市が、すなわち都市の街路と広場が人間を養育している事実をルドフスキーは指摘しましたが、そのもっとも端的な実例がカンポ広場なのだと思います。そこでは、ルドフスキーの言葉は一点の曇りもない、説明不要の、人間の直感が捉える真理として現前しているのですから。
新市街地はどこも同じようなものであるのに対し、旧市街地では街路と広場と教会がそこを無二の特別な場所として刻印している事実に、振り返って改めて感動を覚えます。観光客であふれ返るフィレンツェとローマを別にして、どの都市もそれぞれ独自の親愛の表情をもって一人の異邦人を迎えてくれたことに感謝しなければなりません。いうまでもなく、都市の表情を演出するのは街路と広場と教会であり、また実際のところそれ以外にあり得ないものです。
今回新たにテーマに据えたのは「city wall」と「city gate」です(以下、日本語表記としてまだ一般的ではありませんが、英語を直訳し、それぞれ「都市壁」、「都市門」と書きます)。すなわち、今回巡った都市は城壁都市(=城塞都市または城郭都市)として発展してきた歴史を持っています。都市という共同体の周囲に壁を巡らせて外敵から守る、その壁が都市壁であり、都市壁に空けられた通路が都市門ということになります。
都市壁と都市門の存在理由に疑うところはないとしても、ゲーム上ではなく現実の都市ともなればそれらは必然的に大規模な構造物となり、丘陵地帯では丘陵の上に都市が造られますから、その構造は地形にしたがって複雑かつダイナミックな形態を示します。ヴォルテッラでは谷をまたぐ都市壁と都市門が実に興味深い構造をなしていて、そこには日を重ねて通ったものです。
当然のことながら都市壁は単なる壁ではなく、外敵の攻撃から内部を守り、さらに外敵を攻撃し排除する拠点(=要塞)をかたちづくることになります。中世の円形城塞は火砲の普及後にその脆弱性が明らかになり(死角が生じる)、イタリアでは15世紀から星形要塞が現れてきます。その三角形の突端(稜堡)が互いに連携して作動し、死角をなくすわけです。稜堡は外部からは単なる突端にしか見えません。ピストイアでは一部の稜堡を保存し、歴史的構造物として一般に公開しています。実際に見学してみますと、その内部の複雑な構造には驚かされます。攻撃の拠点としての合理性をとことんまで追求した結果でしょうか。
都市壁と都市門については別の見方がなりたちます。つまり、都市壁と都市門は都市存在の表象となるということ、それは人間と人間がまとう衣服の関係性と同類です。と、理屈をこねなくとも、都市壁は外部から見られてはじめて意味が明らかになる存在ですし、都市門は外部からの進入者に対し「わが街はここから始まるぞ」という高らかな宣言であるはずです。実物を目前にすれば、だからそこに住民の美意識が結集されたであろうことが納得できます。
都市壁は単なる過去の遺物なのでしょうか。いいえ、ルッカでは都市壁が現代人の生活を見通して造られたかのように見事に機能しています。完全に保存された星形要塞の内部では、都市壁上端まで盛られた土の上は途切れることのないループ状の遊歩道となり(都市門通路とは立体交差)、そこで忙しい現代人は「わが街」とその外部を見下ろしながら、一周数kmを散歩やジョギングに励むという次第になっているのです。なんと合理的かつ幸福な取り合わせでしょう! それは未来的ですらあります。
都市壁と都市門のほか、主要テーマである街路・広場・教会についても、見るべきところは見てきたと思います。つぶやきながら楽しんでご覧いただければさいわいです。
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人口およそ8.2万人。ローマの空港からシエーナへの経路途中にグーグル・マップで探し当てた街。トスカーナ州グロッセート県の県都。そのこぢんまりした旧市街地は星形要塞で囲まれ、内部にはドゥオーモあり広場ありで、トスカーナの典型都市といえると思う。都市壁沿いの遊歩道が一部放棄されているのは残念だった。(2013.2.11公開)
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人口およそ5.5万人。超弩級のカンポ広場とドゥオーモを擁する街はどこか高雅な雰囲気を醸し出す。11世紀から数世紀にわたるシエーナ共和国を興した街と知れば、それもむべなるかなと納得。鉄道駅からのアクセスが改善され、今は駅前商業施設と丘陵上の旧市街地はエスカレーターで結ばれている。歴史地区は世界遺産に登録。(2013.4.9公開)
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人口およそ2.2万人。街の名は「エルザ川の谷の丘」の意。シエーナからバスでヴォルテッラに向かう途中立ち寄った。新市街地から視線を上げると、丘の上にある旧市街地を見通すことができる。そこは細長い尾根の上、狭い敷地はくまなく活用され、全体は小宇宙をかたちづくる。細街路の興奮を久しぶりに味わった気がした。(2013.4.19公開)
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人口およそ1.1万人。特徴的な要塞、1950年代に掘り起こされた野外劇場、魅力的な内部を持つドゥオーモとその他多くの教会、平静さを感じさせる街路と広場、街全体からそこはかとない香気が漂ってくる。それは、新石器時代からの居住地であり、エトルリア人の重要な拠点都市だったという歴史が醸し出しているものなのか。(2013.5.10公開)
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人口およそ8.8万人。大聖堂や斜塔が配置された奇跡の広場はテーマパーク風だし、ストリートヴューで見る街路景観は散漫な印象しかもたらさない。ほんとのところどうなのか、身軽ないでたちでドゥオーモ広場を出て、町中を数時間歩いてみた。多彩な教会群、市街地中心を貫く緻密な歩行者街路、大分印象が変わったように思う。(2013.6.19公開)
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人口およそ8.5万人。星形要塞で囲まれた旧市街地を、私としては「完全なる都市」と呼びたい。過去がそのまま現代に直結しながら、すべての要素が有機的に関連し、今もなお現代人の生活を豊かに彩っている。ひとつの都市という場所で普遍的な人間性を解放することが、時代を超えて常に可能であることを示す希有な実例と思われる。(2013.9.7公開)
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人口およそ9.8万人。ルッカと同規模の旧市街地内部は広狭さまざまな幅員の街路が混在し、そのためまとまった印象深さに欠けるうらみがある。しかしそれよりも、到着日(土曜日)の夕方、小広場と街路に設置された食事席のにぎわいには圧倒された。観光地ではないから主役は市民、今この時を徹底的に楽しむその姿勢に脱帽するのみ。(2014.1.20公開)
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人口およそ37.3万人。誰もが知る観光都市。ローマも同列だが、この規模になると街を楽しむというより、何かに追っかけられながら名所を巡り歩くということになる。また、二日程度の滞在で街の何がわかるということでもなかろう。単なる観光写真集にならずに街路研究会としての責務が果たせるかどうか、そこが問題だ。(2014.7.16公開)
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人口およそ10.0万人。なだらかな斜面上の旧市街地はすべての要素を高次元で兼ね備え、魅力に不足するところがない。なかでも、斜面頂上部にドゥオーモ、最低部に主要出入口、その間を貫くように走るイタリア通り、幅員は広すぎ狭すぎず、心地よい傾斜、見上げ、また見下げのビスタの面白さ、ありそうでない街路のように思う。(2014.10.5公開)
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人口およそ16.9万人。ウンブリア州の州都。魅力的な要素をちりばめた旧市街地は見て歩いて飽くことがないが、しかし何よりも坂道街路の多彩さは驚くほど。こぎれいなものから合理的なもの、さらには超ダイナミックなものまでそのレンジは広大で、凸凹の激しい場所で人間がいかに都市をつくりうるかの見本がここにある。(2015.2.11公開)
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人口およそ2.8万人。アッシジ駅を降りて線路沿い北西に150m進むと、丘陵上の旧市街地につながる大通りと交差する。そこからほぼ直線状に北東端の街まで2km、駅からバスも運行しているが、こういう場合は歩くに限る。寄付者のプレートが埋め込まれたきれいな歩道を踏みしめながらたどり着いたそこは飼い葉の匂いがした。→準備中
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人口およそ278.3万人。凸凹の激しい石畳の狭い歩道、バイクと自動車はけたたましく駆け回り、救急車が狂った音調を轟かせて走り抜ける。そんな街路から目に入るのはグロテスクなまでに巨大な建造物と古代の廃墟。ここで都市とは、街路とはなどと思考するのは不可能、だから居直って心のおもむくまま適当に歩き回ることにした。→準備中