グロッセート Grosseto
ローマからとりあえずシエーナにたどり着きたい、そこで中継都市をグーグルマップで探したら星型要塞を備えた都市がみつかった、ストリートビューで見るその要塞内部には立派な広場とドゥオーモがある、という積極性に欠ける理由で訪れたのがグロッセートです(とはいえ、こんなことができてしまう現代はすばらしい)。フォトアルバムをまとめるにあたって、グロッセートの歴史を調べてみました。
グロッセートの都市としての歴史は中世盛期(およそ11〜13世紀)に遡ります。紀元前7〜3世紀のエトルリア文明圏にあったのに、エトルリア文明とは無関係だったのかといえば、決してそうではありません。市中心から北東およそ4㎞にロセッレ(Roselle)という村があります。現在グロッセート市域に含まれるロセッレ、今は一村落に過ぎませんが、その背後の丘の上にはヴィッラノーヴァ文化時代(紀元前1100〜700年)に起源を持つ同名の都市が、エトルリア時代からローマ時代を経て12世紀まで存在していました。
エトルリアの都市国家ロセッレの歴史は紀元前7世紀に始まります。ロセッレは12の連盟都市には含まれていませんが、近くにあった有力な連盟都市のひとつヴェトゥロニア(Vetulonia)に取って代る勢いで、ティレニア海沿岸からはるか東方の山岳地帯にいたる広大な範囲を支配していました。紀元前294年、ローマの支配下に入り、ローマ帝国のもとで広場、バジリカ、野外劇場、温泉浴場などが建設され、ロセッレは壮麗な時を謳歌しながら、4世紀には司教行政の中心地になっていきます。
外敵の侵入やマラリアの蔓延によって6世紀からロセッレの勢いは下降線をたどり、935年、サラセンに襲撃されて以来、再建されず徐々に衰退していきます。それと並行するかたちで新たな共同体としてグロッセートが出現し発展していくのです。1138年、ロセッレにあった司教座はグロッセートに移され、名実ともにグロッセートが都市の本体として機能することになります。こうして、ロセッレからグロッセートへという展開の構図が描かれるわけです。
「803年8月、古い聖ジョルジュ教会とその資産がアルドブランデスキ家に賃貸借契約で与えられた」、グロッセートについての最初の記述にはこう書かれています。アルドブランデスキ家はトスカーナ南部で権勢を振るっていた貴族で、アルドブランデスキ家が支配するグロッセートは12世紀終わりまで続きます。13世紀からは自由都市の形態を整えていくのですが、12世紀後半以降、トスカーナ大公国に入る16世紀後半までのグロッセートの歴史は、シエーナ(共和国)の覇権とそれに対する抵抗の歴史と言っていいものです。それはシエーナ共和国にとって、グロッセートは最南端の国境を画する位置にあったからです。
グロッセート対シエーナの構図を羅列してみましょう。1151年、シエーナの要求にしたがって、貢租として塩を納めることを約束させられた。市民による自治が進みシエーナへの不服従の機運が高まった1244年、シエーナは3千人の兵士をグロッセート送り、外交交渉を行なってシエーナへの忠誠と服従を誓わせた。1259年、アルドブランデスキ家が再度、支配権を確立しようとすると、シエーナ軍はグロッセートの引渡しを要求し、自ら傀儡の市長を任命した。1260年のモンタペルティの戦い(教皇派
・フィレンツェ×皇帝派・シエーナ)ではフィレンツェ側について戦ったが、シエーナ軍が大勝し、結果、グロッセートは再び占領され、破壊された。1312年から20数年間、グロッセートの自治を守った僧院長ビーノは、1334年、シエーナとの戦いのなかで捕捉され獄死した。
シエーナ共和国の滅亡と、それに続くカトー・カンブレジ条約(1559年)によってグロッセートはメディチ家が支配するトスカーナ大公国の一員になります。現存する立派な都市壁はこの時代にメディチ家によって建造されたものです。18世紀になって、メディチ家の断絶にともないトスカーナ大公国はハプスブルク=ロートリンゲン家に継承され、フェルディナンド3世(トスカーナ大公在位:1790-1801, 1814-1824)とその子レオポルド2世 (在位:1824-1859)の治世下では、現グロッセート県一帯のマレンマ地方の干拓がすすめられます(マレンマ地方は湿地帯で、蚊の発生によるマラリアの流行が問題となっていました)。干拓事業の推進にあたって、レオポルド2世はグロッセートと良好な関係を築き上げ、このためグロッセート市民は1846年、レオポルド2世の石像を広場に建立しています。しかし時はイタリア統一運動のただなか、レオポルド2世は国外に退去します。
1897年の「エスタタトゥーラ(estatatura)」の廃止は、グロッセートが都市として発展するための基礎となりました。エスタタトゥーラとは18世紀から19世紀にかけてのマレンマ地方に特有の習慣で、夏季に住民が一時的に移住する現象です。夏の時期になると湿地帯のマレンマ地方には蚊が発生し、マラリア流行の危機が高まります。そこで平地の住民は温かい時期を迎えると一時的に後背の高地に移住し、秋になると元の場所に戻るというわけです。トスカーナとマラリアの関係は意外に深く、トスカーナの多くの都市が丘陵の上に造られているのはマラリアから逃れるためだったという説もあるほどです。
グロッセートは第二次世界大戦中の1943年4月に空爆を受けました。そのためもあるのでしょう、旧市街地の町並みにやや統一性に欠けるうらみがあったのは事実です。でもグロッセートはいい街ですよ。