都市の哲学 田村敏久・著

街路を走行する自動車が惹起している街路についての、したって都市についての本質的な問題とはすなわち、街路を都市の唯一の場所として生きるほかない都市の人間のいのちの展開としてある本源的な欲求が、街路を走行する自動車に阻まれて実現されないということです。自動車による影響を排除して、歩行者の街路にたいする本源的な欲求を実現するには、自動車が歩行者にとって脅威となっている現状においてはもとより、歩行者が自動車にたいしてスーパーマンになるという未来のありうべき状況においても、すでに検討してきたように、街路から自動車を排除する以外にありません。すなわち、都市に歩行者専用道路を実現することは、工業製品としての自動車の性能と無関係な都市の普遍的な課題なのです。

それでは、都市に歩行者専用道路を実現しようとしたらどうすれば可能になるのでしょうか。自動車利用の現状をかえりみれば、それはあまりにも突飛な発想のように思われるかもしれません。突飛なのは自動車利用を廃棄することが想像を絶しているからですが、それは自動車利用が生活と分かちがたく結びついている現状があるからですし、また自動車はそれだけ便利な乗物だからです。

そこで、自動車利用を廃棄せずに歩行者専用道路を構想するなら、問題は必然的に都市全体の道路のネットワークの構成方法に発展していきます。道路の主要なふたつの利用主体の一方の側に専用の形態を考えるなら、もう一方にも専用の形態が必要になるはずですし、またその中間の形態も要求されるはずですから、それら少なくとも三種類の道路は相互に緊密に関連して、全体として効率的な道路のネットワークを構成しなればならないからです。この具体的な検討は最後のほうでまとめてなされます。

街路を都市の唯一の場所として生きるほかない都市の人間にとって、街路が歩行者専用道路になって街路空間が全開にされるときは、すなわち街路における場所=空間の本来的な問題が全開にされるときです。つまり、空間の天井に人間がもとめる形態の必要性がそのときはじめて明快に意識され、正式な論議の対象に上せられます。現状のように歩行者にたいして街路空間が全開されているとは到底いえない状況で、街路の空間形成に言及しようとする問題が形式的に取り上げられることはあっても、本格的な論議の舞台にのせられることはありえません。たとえば、都市景観という言い方が権力の側からしきりになされても、一般の市民にとってはうつろにしか響かない現状を反省すれば、それは明らかだろうと思います。

いうまでもなく、空間に人間がもとめる形態の天井とは、一定の高さの壁が提示してみせる床の写像としての天井です。このとき、天井は空間をかたちづくる壁の配置状況を一定の高さに明示することによって、空間についてのもっとも確かな情報をもたらす媒体として機能します。場所=空間を察知しなければ自己の存在をささえられない人間は、こうしてあらわれている天井を視界におさめることによって、もっともよく場所=空間を察知し、したがってもっともよく自己をささえることができます。それはまた、人間にとって行為を展開するのに十分な基盤が形成されることを意味します。こうして、一定の高さの壁をもつ空間をもとめるのは人間に潜在する本源的な欲求であること、またその欲求を実現することが人間の課題となる実情がしめされます。

都市の構造であり、またじっさいのところ都市そのもにほかならない街路について、第一に自動車の走行を排除した歩行者専用道路を実現すること、第二にそれを一定の高さの壁によって空間としてかたちづくることが、現状の都市のもっとも本質的なふたつの課題になります。ほんとうのところ、それは普遍的な都市の普遍的な課題といえるものであって、この課題を解決しないかぎり都市についてのあらゆる方策は無に帰しかねません。

といって、バーナード・ルドフスキーがいみじくも街路を都市の部屋とよんだように、それだけで街路が人間にとって完璧な場所になるというのではありません。都市景観を論じようとしたら、現状においてさえ建物の壁面の様相に言及せざるをえないように、建物の壁面や、建物の用途や、街路の床面も問題になります。それは街路が都市の部屋にほかならないからですが、これらの全体を問題としてとりあげてはじめて街路は人間の完璧な場所になりえるのです。

ここでの話を完結させるためにも、街路を都市の部屋に構築するための具体的な方策を検討しなければなりませんが、そもそもここでそれらのいちいちを書き記すことに意味があるのは、それらが実践につながる場合にかぎられます。都市は鑑賞の対象ではなく、都市に生活する私たちの逃れられない環境なのですから、実践につながらない都市の言説はすべてむなしく無意味です。

実践というなら、個人のための個人の実践という表現に不明な点はないはずですが、都市は都市に居住する人間達の複合体となって現前していますから、都市のための都市の実践という表現がおなじように不明な点がないというわけにはいきません。都市の実践がいかなる方法によって可能となるか、そのナチュラルな、したがってもっとも効果的な方法を都市の人間と人間の関係に立ち返って明らかにする必要があります。それは実践の哲学とよべるものですが、街路を都市の部屋に構築するための具体的な方策を検討するまえに、つぎにその実践の哲学をしあげておきましょう。

 

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