都市の哲学 田村敏久・著

ここまでくれば、歩行者が自動車にたいしてスーパーマンになったとき、歩行者は街路でどのように振る舞うかを私たちは明快な根拠をもって説明できます。そのとき、歩行者が歩道と車道の区別を無視して街路を歩き回ることになるのは必然です。場所を存在の根拠として生きるほかない人間の衝動にほかならないと、それはいえるからです。

繰り返しになるところもありますが、もう一度整理して説明しましょう。壁の見え方がまさっているというのは、空間の現出の強度がまさっていることを意味します。この点に不明なところはないはずですが、問題はこのさきです。空間とは立体的構造をもった人間の場所のことですから、空間の現出の強度は結局、人間の存在をささえる場所の現出の強度に置き換えられます。またさらに、人間の存在をささえる場所の現出の強度は結局、人間の存在をささえる強度に置き換えられて、人間の存在そのものに関係してくることが読み取れます。

注意してほしいのは、こうして展開される論法は言葉の遊びではまったくないということです。言葉をつかって事態の真実に肉薄しようとしているのであり、またじっさいのところそれだけが問題です。

そこで人間の存在をささえる強度とはなにか、この点を引き継いで話を展開しましょう。人間の存在をささえる強度がそのまま人間の存在の強度を意味することになるのは論理的必然ですが、では人間の存在の強度とは具体的にどのようなことでしょうか。人間の存在の強度をさらに単純化すれば、人間の強度と書けるはずですが、これを空間=場所と人間の関係に立ち返ってもっとわかりやすくいえば、人間が空間=場所から獲得するパワーのおおきさと表現できます。人間は自分の場所を内面に取り込んで、はじめて自己の存在をささえることができている実情をかえりみれば、この表現が意外と理にかなっていることが理解されるでしょう。

こうして、つぎのことがいえることがわかります。街路に存在する人間にとって、街路の端と中央とでは街路空間から獲得するパワーにおおきなちがいがあり、街路の端では街路の中央にくらべて三分の一しかパワーを獲得できない。ここでいうパワーとは人間のいのちの展開と直結していますから、人間がよりよく生きようと希求するなら、空間=場所からよりおおきなパワーを獲得しようとするのは、もはや人間の生の衝動といっていいものです。したがって、スーパーマンとなった歩行者が車道に出ようとするのは押さえつけられていた衝動が解き放たれた結果ですから、だれも止められませんし、またそれは人間のいのちの展開そのことである以上、止めてはならないものであるはずです。

状況をもっと冷静に描いておきましょう。さきほど、街路の壁の見え方を計算する過程を説明したところで、街路の壁の見え方は、横軸を道路の幅としたときに、道路の中央で最大値をとる両下がりの釣鐘状のグラフとして描かれることをいいました。このとき、道路の端部の値は中央の値の三分の一になっているわけです。

縦軸の壁の見え方は現出する空間の強度に置き換えられますから、より単純化して、それをさらに空間のパワーと置き換えることができます。つまり、空間のパワーは街路の中央で最大になり、両端にいくにしたがって釣鐘状のかたちで下降していき、ついには中央での値の三分の一にまで減少します。この状況は、街路空間は街路の中央で全開され、街路の端ではその三分の一しか開放されないのだとも表現されます。すでに説明してきたように、ここでの空間のパワーはそのまま人間のパワーを意味しますから、それはさらに、街路空間での人間のパワーは街路の中央で全開され、街路の端ではその三分の一にしか開放されないと表現されます。

そうであれば、街路の中央に移動しようとするのは街路に生きる人間の本源的な欲求であること、したがって、それは都市の街路でぜひとも実現されなければならない欲求であることが明瞭に理解されるはずです。

 

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