都市の哲学 田村敏久・著

自動車による事故が恐ろしいから自動車が我が物顔に走行する車道に不用意に出ないようにする、これが人間の隷属を意味するのだとしても、それは危険にみちたこの世を生きていくための人間のごく自然なあたりまえの反応のように思われますし、じっさいそう考えてこの状況を済ましてしまっているのが現代の人間たちです。しかしほんとうにこれでいいのでしょうか。

相手は自然のような人間の力がおよばない対象ではなく、人間がつくりだし、人間が運転している自動車です。また、そこは街路という都市の人間が共有する唯一の場所です。このことはすなわち、街路における自動車に強いられている隷属が人間のいかなる隷属であるかを明らかにするよう、人間の理性に問いかけているということです。それが明らかにされたとき、はじめて人間はこの事態にどう対応すべきかをいうことができます。したがって現代の人間たちは、すくなくともこの点において理性の働きに欠けるところがあると言われても致し方ありません。

街路の現状のなかに発見される人間の隷属が、いかなる内容をもっているのかを余すところなく理解するには、すでに確認してきたように自動車をとらえるもっとも公平な観点に立つ必要があります。そのとき人間は、はじめてあらゆる偏見から自由になって、状況をくまなく把握することができるはずです。

自動車をとらえるもっとも公平な観点とは、人間にとって普遍的な意味をもつ理想的な自動車を想定し、それを街路に置いて考えることでした。その理想的な自動車は、走行時の騒音や排気ガスや粉塵はゼロに等しいレベルになっていますし、事故の危険性もセンサーの装備によってゼロといっていいほどになっています。ですから、歩道と車道に分離された現状の街路に発見される人間の隷属はいずれ解消されるはずのものであり、ほんとうは、その隷属が解消されたときの歩行者と自動車の関係をえがくことが、街路における両者の本来的なありかたを明らかにするはずだったのです。そしてそのときこそ、現状の街路に発見される人間の隷属が意味するところを、もっとも明瞭に照らしだすときにほかならないわけです。

あらかじめ注意しておきたいのは、自動車に装備されたセンサーによって自動車の危険性がなくなっている状況を想定することは、ほんとうに実現されるかどうかとはべつに、けっして大げさな、また突飛な話ではないということです。歩行者と自動車の関係をさぐるうえで、じつのところそれはもっとも基本的な場面にほかなりません。

自動車の危険性がなくなるというのは、すなわち自動車による隷属から人間が開放され、歩行者と自動車が対等の立場に立つことを意味します。ひとつの場所を共有する二者それぞれの、ひとつの場所にたいする要求が歪むことなくそのまま発現されるのは、両者が対等の立場にあるときだけです。そのひとつの場所を築くにあたって、私たちはまずそうして発現されるはずの両者の要求に耳をかたむける必要があります。ひとつの場所で一方が他方に隷属させられている状況が意味するところは、このときはじめて明らかにされます。したがって対応の方向がしめされるのもこのときです。

しかし、自動車の危険性がなくなるというのは街路の現状と正反対のことですし、どこかで実験をしてみるというわけにもいきませんから、私たちとしては思考によって、そのとき現出する状況を検討する以外にありません。そこで自動車の危険性がなくなったとき、街路での歩行者と自動車はどうなるか、つぎに思考実験をしてみましょう。

 

プロフィール