都市の哲学 田村敏久・著

はじめにセンサーの役割を確認しておきます。自動車に装備されたセンサーが進行方向の一定距離以内に物体を感知すると、自動車は運転手の意思に関係なく自動停止します。事故の危険性を回避するうえで、これがもっとも有効な仕組みであるのは容易に理解されるはずですが、ほんとうにそういうかたちで実現されるかどうかとはべつに、事故の危険性を回避するもっとも有効な仕組みを前提することが、街路上の歩行者と自動車、双方の本来的な要求をもらさずくみ取ることができるという関係になっていますから、私たちとしてはこう想定することに躊躇する必要はまったくないのです。

さてそのとき、人間にたいする事故の危険性がなくなったとしても、移動の道具としての自動車にもとめられる機能に変化があるわけではありせん。自動車を利用する目的はあいかわらず街路を走行して、ひとつの場所からべつの場所へもっとも効率的に移動することです。ただ、センサーの装備によって事故の危険性がなくなっていることは自動車の走行に微妙な変化をもたらします。

いままでの歩行者にたいする脅しは、もはや脅しとして作用しませんから、街路から歩行者を排除する必要性はこれまでになくシビアになっています。歩行者が不用意に車道に出てくるとそこで自動的に停止してしまいますので、自動車はほんとうに困ってしまうわけです。対策として考えられのは、歩行者を簡単に車道に出られないようにすることですが、そうなると不都合をきたすことになりますので、抜本的な解決策は街路を歩行者用と自動車用に最初から分けてしまうことです。つまりこのとき、自動車の走行のために歩行者専用道路が必要になるという、いささか逆説めいた話が真実味を帯びてくることになるのです。

いっぽう、歩行者の側には当然ながらおおきな変化があらわれてきます。自分に向かってくる自動車がほんとうに一定距離になったら自動停止するのか、最初は不安があるでしょうが、経験をかさねて信頼性が高まれば自動車はもはや人間にとって脅威ではなくなります。自分に向かってくる自動車は自分のまえにきたら自動的に停止してしまうのですから、人間は自動車にたいしてスーパーマンになったのです。自動車にたいしてスーパーマンになった人間が街路でどう行動するのか、ここに街路に潜在している問題、しかも街路のもっとも本質的な問題がすべて摘出されるはずです。

スーパーマンになっても、歩行者は現状のような形態にある街路を、歩道と車道をそれぞれに指示された機能にしたがって理性的に使い分けるのでしょうか。それとも、歩道も車道も関係なく歩き回るということになってしまうのでしょうか。はっきりいえるのは、このとき子供や老人に歩道と車道の理性的な使い分けを期待することはできないだろうということです。そうする必然性は、かれらにとっておそらく理解の外にあるだろうからです。おとなだって、歩道と車道という、もはやたんなる形式と化した指示にどれだけしたがうのかは疑問です。

問題は、自動車にたいしてスーパーマンになった歩行者が、歩道と車道に関係なく街路を歩き回るということが理性を欠いた行動と単純にいえるのか、それとも人間の内部にかくれていた欲求が顕在したものなのかを見極めることです。前者であれば、歩道と車道の分離方法を検討するとともに、人間は理性の涵養につとめなければならないということになりますが、後者であれば、その欲求の起源を明らかにしながら、歩道と車道の分離そのものが検討の課題に上ってきます。

結論を先にいってしまいますと、スーパーマンになった歩行者が歩道と車道に関係なく街路を歩き回るのは、理性を欠いた人間の行動などではありません。それは人間のいのちが燃焼するところに生まれる、もはや衝動ともいうべき欲求が開花したものにほかなりません。そしてそれは、人間が都市に生活するなら、ぜひとも開花させなければらない欲求です。

その欲求の起源がどこにあるか、読者はすでにお気づきかもしれません。それはすなわち場所の察知と承認という、人間の存在を根底からささえている契機にあります。自動車の隷属から解き放たれた人間が車道に出てしまうという単純な行動が、どうして人間のいのちの活動と直結する話になるのか、つぎに説明しましょう。

 

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