都市の哲学 田村敏久・著

自動車は人間にとって便利な、しかも現状ではもっとも便利な乗物です。一方すでにみてきましたが、人間の歩行は便利な乗物である自動車にくらべてのろいからといって否定されるようなものではまったくなく、人間の存在を更新する唯一無二の行為です。人間は歩行によってはじめて自分の存在を更新しえていますし、それはまた生の衝動といえるものです。ここにおいて、自動車の走行と人間の歩行はそれぞれ独自の意味をもっており、その両方を味わいつくしてはじめて人間の生活に豊かさがもたらされるということができます。

都市において自動車と歩行者は活躍の舞台を共有する以外にありません。その舞台は都市の構造であり、また都市そのものといえる街路です。このことが都市の自動車と歩行者の根源的な条件であって、それは一方で困難な条件ともいえますし、また一方で両者が上昇するために好都合な条件ともいえます。困難だというのは、自動車と歩行者はたがいに敵対することが避けられないからであり、また上昇するために好都合であるのは、自動車と歩行者が舞台を共有することによって、両者のあいだに強力な弁証法が機能するはずだからです。

自動車と歩行者が敵対関係にあるのは、街路の現状をみれば明らかです。しかしその内実は街路の表層に捕らえられる状況をはるかに越えています。この点については後段で触れることにして、ここでは自動車と歩行者のあいだに働く弁証法について説明を加えましょう。

弁証法といえばむずかしそうですが、Aがあり、ノンAというBがあるとき……それはまた、Bがあり、ノンBというAがあるときと表現できます…… 、単純にA対Bという対立する境地を脱して、いわばA+Bという、より高い境地に到達する運動がすなち弁証法です。

この世にA(=ノンB)対B(=ノンA)という構図でしめされる物事は無数にあります……ごく単純なものを例示すれば、明と暗、有と無、内部と外部、善と悪、高と低、生と死‥‥。AとBは独立しているようで、ほんとうのところ互いに一方によって意味をあたえられているというのが実情ですから、それらは意味をもとめる人間からエネルギーを与えられて、おのずと弁証法の運動を展開しながら私たちの生活を意味づけてます。重要なのは、人間の上昇はこの弁証法よる以外に道が断たれているということ、またその道は人間の理性が本来的にさがしもとめている道にほかならないということです。

そこで自動車と歩行者の弁証法です。自動車の走行と人間の歩行はそれぞれ人間にとって独自の意味をもっていながら、都市においては舞台を共有せざるをえないことから、はっきりと対立する状況が避けられません。ここでの弁証法の重要な点は、そうであるならこそ、自動車の走行は人間の歩行の意味をもっとも良く照らし、逆に人間の歩行は自動車の走行の意味をもっとも良く照らすはずだということです。そのとき人間は、街路上の自動車の走行と人間の歩行をもっとも良く扱うことができるはずです。

これは人間の理性がおのずと選択する道ですから、私たちが迷う心配は無用なのですが、そうなるにはひとつの条件が不可欠です。そのひとつの条件とは、ともかく両者の意味が剥奪されることがあってはならないということです。どちらか一方の意味が剥奪されてしまったらどうなるかは、もはや明らかであるはずですが、そのとき両者の弁証法が機能することなく、一方が異常に肥大化するだけで、人間はそこで理性をもって臨むことができなくなります。それは、人間の欲望が意のままに注ぎ込まれているようで、ほんとうは大切な片方をなくしながら理性のコントロールを失うという、人間にとって本質的に貧しいだけでなく、危うい状況でもあるのです。

自動車は人間を包む空間としてみても、移動の手段としてみても、人間にとって十分な存在とは到底いえないのに、自動車への愛着がファナティックにまでなっている現状を説明する方法として、自動車と歩行者の弁証法の機能障害をあげる以上のものはありません。そのほんとうに指示するところは、都市の人間は歩行の意味を見失っているということです。このことがどのような重みで計られるべきか、私たちにとってはすでに明らかですが、正常な状態を回復するには、現状の街路での歩行の実態を正確に描く必要がありますし、またそのための実践の道筋を提示する必要があります。

これらは以後の主要な論点を形成するはずですから、いまは自動車の問題に戻って、自動車利用に働く原理を徹底して明らかにする作業を継続することにします。

 

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