都市の哲学 田村敏久・著

そろそろルールの具体的な検討にはいるべきときが近づいてきましたが、そのまえにルールをまちがいなくあつかって理想の都市に着実に近づくために、ルールの本性とでもいうべきものを確実に把握しておく必要があります。

ルールというと、それはあたかも人間が頭のなかでひねりだした結果のように思われがちですが、都市の未来にむかう、都市のルールは到底そのようなものではありえません。それは、もはや必然といえるほど人間の事実と深く結びついています。ただし、これには注釈が必要です。デザインストラクチャを街路に、都市の人間の部屋としての街路に定めたとき、はじめてそういえるということです。これはまた、デザインストラクチャが街路以外にありえないことを間接的に証明するものです。

その人間の事実とは第一に、内部と外部の関係です。内部があるから外部があり、外部があるから内部があり、この関係が結局全体をかたちづくっているという事態を弁証法とよぶべきだと思いますが、このなかで人間の事実として強調するべきなのは、人間に上昇がもたらされるとすれば、それは内部と外部の弁証法によるしか方法がないということです。

もっと具体的に説明しましょう。この場合、内部とは建物の内部のこと、外部とは建物の外部のことです。都市にあって建物の外部は街路としてあらわれるほかありせんから、[内部−外部]の関係は、すなわち[建物−街路]の関係です。このとき、内部があるから外部があり、外部があるから内部があるというのは、両者はそれぞれ他方に対照させられて、はじめてその意味を明らかにするということです。意味を明らかにするとは、人間によって意味あるものとして理解されるということです。常識がとらえているように、内部は内部のままで、外部は外部のままで人間にたいして意味となってあらわれているというのではまったくないのです。

それはごくあたりまえと思われている事実を反省するだけで、ただちに明らかになります。世界各地にはさまざまな形態の建物がありますが、不可避的にそれらはその土地の自然環境と密接な関係をもってあらわれています。これは常識ですけれども、その指示する内容も常識であるわけではありません。つまり、特徴的な内部空間を獲得しようとする人間の活動は、その外部との関係性のなかでしか発現されないということ、いいかえれば、人間は外部との関係性のなかではじめて、それぞれ特徴的な内部空間を獲得する意味を発見しているということです。これが外部と内部の関係の表層にとらえられる姿ですが、さらに、この関係は人間の生活そのものにまで下りてきて、そのあり方を根本から規定しています。

実生活からの必要性という面は一時わきにおいて、建物の生活がどう意味づけられているかを反省してみてください。たとえばそこは活動の場所なのか、安息の場所なのか、避難の場所なのか、あるいはたんなる休憩の場所のなのかを問うことです。そうすれば、建物内部の意味が外部と相関関係をもってあらわれている、というより外部との相関関係のなかでしか建物内部の意味は示されないということが理解されるはずです。ひとつの建物のひとつの部屋にいる意味は、外部の状況によってまったく異なるという日常的な事実がこの必然的な状況を明確に物語っています。

ここを押さえることができたなら、人間の場所の上昇は内部と外部の弁証法による以外にもたらされないといえることが理解されるはずです。建物の内部をいかに飾ろうと、そこが人間の場所として上昇できるかどうかは、もっぱら外部の状況にかかっています。建物の内部が外部と無関係に、それ自体で人間の場所として上昇できるというのは幻想にすぎないことを私たちは知るべきなのです。

都市にあって、人間の場所は建物と街路の弁証法による以外、その上昇の道は絶たれています。というより、建物と街路の弁証法によって人間の場所の上昇が約束されているのが都市だというべきです。上昇が約束されているのは、街路が徹底して人間活動の産物だからです。[内部−外部]の関係が[建物−自然]なら、そういかないのは容易に理解されるでしょう。ここに人間の生活の場所としての都市の可能性、それも無限の可能性を読み取ることができます。都市はほんらい、人間にとって窮屈な場所などではまったくないのです。

都市にあって[内部−外部]の関係が[建物−街路]となってあられているというのは、それはまた[個−全体]という関係になってあらわれているということです。いうまでもなく個とは個々の建物であり、全体とは街路です。街路は都市そのものの端的なすがたであり、したがって街路が都市の全体にほかならず、さらにまた街路はその両側に並列する個々の建物によって構成されて、はじめて人間の場所として現出しています。[内部−外部]という人間にとって必然的な関係が、都市にあって[個−全体]の関係に行き着くというのは、そこに都市のルールの出所が明確にしめされていることを意味します。

個があり、個が構成する全体があるという関係において、ありうべきルールはそれぞれの個にたいして、もとめられる全体を構成するための態勢を指示するものであるはずですし、それがまたルールの本来的な役割にほかなりません。[個−全体]の関係が都市にあって[内部−外部]の関係を本源とするということは、全体にむかう個の態勢を指示するルールは[内部−外部]の関係にのっとって生まれるはずであり、またそれ以外にありえないということです。なぜなら、[内部−外部]の関係は人間にとって避けることができない必然的な関係であり、また人間の場所の上昇はこの関係のなかでしか実現されることがないからです。ほんとうは、それを知っているから建物は街路を指向するのです。

都市の建物と街路の関係を押さえて、では具体的な方策はどうなるかといえば、それは明らかに、街路を人間の場所としてもっともよい場所につくりあげることです。個々の建物を良い建物にしようとするのは人間の自然な自発的な活動ですから、建物が安全で健康的であるための最低基準を設ける必要はあるとはいえ、この局面でルールの出番はありません。個々の建物に注目する場合は、ルールで拘束するより、むしろ自由を保証することが必要といえます。

したがって、懸案となっている、都市の人間の場所を構築するための極めつきの課題は、街路を人間の場所としてもっとも良い場所にすることです。街路が人間のための良い場所になることはすなわち、おなじく人間の場所である建物の内部を生活の良い場所にすることであり、こうして都市の人間の場所に上昇がもたらされます。ルールはその実現のために、個々の建物にもとめらる態勢を指示するものとして生まれます。つまり、内部と外部の弁証法によって都市の場所の上昇をはかろうとすれば、おのずと全体を指向する個の態勢というかたちでルールが導出されるわけです。

 

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