都市の哲学 田村敏久・著

内部と外部の弁証法から導出されるルールが都市のルールの本流となるべきものであるのはまちがいないところですが、都市の現状をかえりみれば、このほかにルールの出所をしめすべつの道筋が発見される必要があります。すでに簡単に触れてきたところですが、それはいうまでもなく、街路の様相を一方的に固定しているかのような自動車をどうあつかうか、その方法から流出してくるものです。

自動車をどうあつかうかというより、都市の人間にとって明らかなのは、自動車は他に代えがたいほど便利な移動の道具であるということ、したがって都市の人間は移動にさいして自動車を利用したいと思う心のはたらきから逃れられないということです。これが真実であるのを否定する必要はまったくありませんが、しかしそれは一面の真実にすぎないことにもまた人間は気づく必要があります。というよりも、移動にさいして自動車利用を望むのは一面の真実にすぎないことに気づかない状況の意味するところを、明らかにすることが先決です。

自動車を利用して都市内部を移動したいという人間の希望を自然なものと受けとめているうちは、都市の自動車交通の問題は永遠に解決されません。都市の人間が希望する自動車を街路に収容することは、物理的に不可能だからです。自動車を収容する器としての街路は、永遠に需要超過の状況から脱却できないのです。しかし、だから移動にさいして自動車利用を望むのは一面に真実にすぎないことに気づかなければならない、というのではまったくありません。人間の理性は快いもの、喜ばしいものを実現しようとするのでなければ十分に働くことはありませんから、そういっても無駄なのです。

移動にさいして、自動車利用を望むのは一面の真実にすぎないことに気がつかない状況が意味するところとは、すなわち、正常な状況では本来機能するはずの歩行と自動車の弁証法が十分に働いていないということです。これは人間にとって異常な状態です。異常だというのは、そのとき人間は現実の表層にまどわされて物事の真相にけっして近づけないということ、つまりは人間の理性が麻痺させられてしまうということです。そのときどうなるかを言うのは簡単です。人間は現実の奴隷になって喜びをうばわれ、苦役を強いられるばかりです。

歩行と自動車の弁証法というとむずかしそうですが、なんのことはない、人間の存在を更新する行為として代替不可能な行為である歩行が、そのまま体験される状況があれば、そのとき人間の歩行に対照されて自動車利用の意味はおのずと明示されるはずであり、同時に自動車利用の意味に対照されて、歩行の意味はいよいよ鮮明になるはずだということです。

いかに豪勢な自動車であろうと、ただひたすらじっと座っているほかない自動車の内部を自らの存在の場所として喜んで受け入れているのは、じつに不思議なことですし、正常な立場からみればほんとうは間が抜けた状況です。自動車利用の現状を象徴するこの事態は、自動車利用の意味の全体が明らかになっていないことを端的に説明しています。それはまた、街路での歩行がほんらいの意味を剥奪されていることを端的に説明するものです。街路での歩行こそ都市の人間にとって最高の祝福であるはずなのに、それがそのほんらいの意味を剥奪され、結果、自動車利用の意味の全体を視野に入れることができないというのが街路の現状であり、したがってそれは人間の理性の働きが麻痺させられた異常な状態であるわけです。

ここから脱却する道はただひとつ、歩行と自動車のあいだに最初から内在している弁証法を十分に機能させることであり、そのための唯一の方法は街路を人間の歩行の場所としてもっとも良い場所にすることです。それはすなわち、都市における街路と歩行と自動車の輻輳する関係を人間の理性を総動員して解きほぐし、両者のあいだに本来の関係を取り戻すことを意味します。人間の歩行の場所としてもっとも良い場所とはどのような場所であるか、すでにその概略は検討してきましたからここで再説しませんが、都市を構成するための自動車の態勢を指示するルールはこの面から必然的に導出されます。

こうして街路を人間の場所として見定めるときに、都市のルールがはじめて必然の糸でつながれて導出されることをみてきました。このことはすなわち、デザインストラクチャは人間の場所としての街路以外にありえないことを端的に証明しています。街路をデザインストラクチャとして、つまり都市の理念としていただくとき、はじめて人間は理性をもって都市に立ち向かうことができるのです。

 

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