都市の哲学 田村敏久・著

都市デザイン、というより、ひろく都市計画とデザインストラクチャの関係を限定して捉える必要はありません。都市計画とは結局、都市の人間の、都市を対象にした未来への投企ですから、都市計画をあつかって、それを未来へ向かう人間の姿勢というかたちに一般化することができます。ただ一般化しすぎると、話の焦点がぼけるおそれがありますので、いまは都市の人間の、都市の未来への投企という面に限定して議論をすすめます。

そこでデザインストラクチャの正体を端的に言い切ってしまいますと、それは都市の理念というべきものにほかならないということです。理念などというと、高尚な言葉が出てきたと思われそうですが、じっさいのところ人間は理念なくして行動を起こすことさえできないというのが実情です。そこに必然的にある理念を理念とよばないから、理念が意識されないということにすぎないのです。

理念というとむずかしそうですが、なんのことはない、人間はしようと思うからじっさいにすることができるのであり、しようと思わなければなにごともなすことができないという、だれもが認める人間の必然的な状況において、しようと思うことを導出する基本的な思考内容がすなわち理念です。人間は良くないこともするわけですから、そのすべてが理念とよばれるにふさわしいか単純にいえないとしても、ともかく人間が行動を起こすにあたって、その行動を生みだす思考内容がかならずなければならず、それが理念であるわけです。人間は理性によって支配され、理性の了解を取り付けなければ、なにごともなしえないことの、それは不可避の帰結であることが理解されるはずです。

こうして明らかになる人間の行動を生みだす思考内容が、すべて理念とよばれるに値するかといえば、もちろんそうではありません。それが理念と呼ばれるにふさわしいかどうかは、理念の鍛えられ方にかかります。現実の厳しい洗礼をうけて、そこで現実に立ち向かう力をかち得たものだけが真に理念とよばれるべきです。人間の思考内容についての話が、どうしてそういうことにつながるのでしょうか。

理念が生みだす行動によって、結果としてひとつの現実が招来されます。理念が現実となって結実したのです。もともと理念はそうなる運命のもとに、人間のなかに生まれたものであったわけです。招来された現実は人間の環境となって人間の存在を制約します。この状況がすなわち、あらゆる都市の現にいまある状況にほかなりませんが、この局面にあっては理念といっても無力です。現実を招来したのは理念だとはいえ、理念を口にする以前に現実は現実であり、現実以外のものではないからです。

そこでつぎに、現実を人間の存在を制約する環境として受けとめる人間の力が試されます。人間の力はほんらい、現実が人間の逃れられない環境であるからこそ、そこに問題を発見して人間を解き放とうとします。現実に問題が発見されたなら、その原因を明らかにして対応の方法が練られ、結果、理念の見直しがおこなわれ、あらたな理念が打ち立てられます。このあたらしい理念はふるい理念の問題点を解決したという意味で、より高いレベルにある理念です。

といっても状況はもっと直截的です。都市の現実は、人間の行動の積み重ねとして進みゆくほかありませんから、理念からうまれる行動が、すなわち今このときの現実をかたちづくっており、現実に問題を発見する人間の力も、すでにある理念がはたらく場と時を共有して発現されるほかありません。ここに冷静な理性の働きがもとめられるわけですが、現実のなかに問題を発見し、原因と対応策を明らかにしようとするとき、そこに打ち立てられるのは私たちの実感からいって、あらたな理念というより、むしろたんにあらたな行動の指針というべきです。

つまり理念というなにか特別なものがあるのではなく、現実にまみれながら、そこに問題を発見し、解決しようとする人間のなかにうまれる現実に立ち向かう力が、すなわち理念なのだというほうが正解です。現実は冷徹で人間のいいわけを一切認めませんから、現実に問題を発見し解決できるのは、それにふさわしい感受性と、事実を見きわめる能力と、持続するこころざしがあってのことです。現実に立ち向かう人間の力はこれらの働きに依存しています。つまり、理念がまことの理念であるかどうかは、その思い込みの深さによるのではまったくなく、たんに現実を唯一の根拠として物事を冷静に把握する理性の働きにかかっているのです。

ここで注釈をくわえておきますと、現実にまみれながら現実に問題を発見し、現実に立ち向かおうとする、そこに感受性と、事実を見抜く能力と、持続するこころざしが必要だというのを、日本人のわるい癖ですけれど、なにか人間にとっての労苦であるかのようにとらえる必要なまったくないばかりか、実情はむしろその対極にあるということです。人間はもともとなまけものですから、無意味であればなおのこと、有意義であってもつらいことは長続きしません。もはや、そのことを嘆く無意味さが明らかになっている時代ですし、事実むしろそれを人間のナチュラルな性向と認めることが、人間の理性を深く開墾するために不可欠だといえるほどです。

この場合、つらいのは理性にとってつらいということです。そうなら、そのこと自体に本質的な問題が内在していると、私たちはわきまえる必要があります。人間の理性はほんらい、快いもの、喜ばしいものをもとめています。快いもの、喜ばしいものを実現しようとするときに、はじめて人間の理性は十分に働きます。したがって理性にとってつらいのは、理性を向ける対象が理性のもとめるものに反しているからではないか、あるいは実現する対象を理性が正確に捉えていないからではないかと疑ってかかるべきなのです。そうして、人間の理性はもっとも深く開墾されるはずです。

 

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