都市の哲学 田村敏久・著

デザインストラクチャはこうしてしめされる理念の、都市に向かう人間のなかにもたらされる一形態であり、その別称にほかなりません。そうであるならデザインストラクチャは、まず第一に都市の現実に問題を発見し、その解決の方法を明らかにしながら、現実の都市を超越した都市像を提示するものでなければなりません。こうしたデザインストラクチャが、都市の現実をしっかりと受けとめ、その反省と洞察のうえにはじめて打ち立てられるについては申すまでもないはずです。

デザインストラクチャはつぎに、都市の人間にたいしてそのもとに結集するように呼びかけます。その呼びかけ引き寄せる力のおおきさはすなわち、未来の都市を提示するデザインストラクチャの力のおおきさによります。ここにすでにデザインストラクチャは都市と都市の人間に試されているということができますが、その関門をクリヤーすることができるかどうかは、都市の現実と将来を見通す力にかかっているわけです。

注意したいのは、こうして説明される都市の将来に向かう人間の方法を特別なものとみなしてはならないということです。それは理性に支配された人間の不可避の事態にほかならないのであって、そう見えるとしたら、それはたんに現状を後押しするだけの資本主義に慣らされた偏見にすぎません。

資本主義はなにかを達成しようとするのではなく、むしろ達成されるべきものをつねに先に送って、結局はなにも達成しようとしない主義です。資本主義にとって重要なのは未来を見据えることではなく、人間の欲望を動力にして現実をそのまま回転させことです。未来を語ってかっこよく見せようとすることはあっても、未来を語ることは資本主義にとって馬のさきにぶら下げられた人参にすぎません。人参が食べられてしまたらそれで終わりですから、資本主義にとって未来は本質的に禁句なのです。

しかし、いままでそうやってきたからといってこの先、未来を真面目に語らずにすますことができると思ったらおおきなまちがいです。人間の理性にとって、それは到底受け入れがたいことだからです。すでにその兆候はいたるところで明らかになってきていますが、では資本主義を捨てればよいかとなると、けっしてそうではありません。本質的に怠惰な人間がその怠惰さから抜け出す環境として資本主義の有効性が証明されたわけですし、自由をもとめるのは人間の本性ですから、自由を本源とする資本主義から人間が逃れられるはずもありません。

問題はしたがって、資本主義を人間の逃れられない環境として相対化し、そのうえで資本主義を人間が発展するための土台として利用することです。いわば人間を資本主義の下にではなく、その上に置くことです。デザインストラクチャの提示というのも、資本主義に席巻され、その下に人間が置かれている都市の現状を人間の理性のうながしにしたがって打破しようとする端的な宣言であると同時に、その人間の力の発現にほかならないのです。

デザインストラクチャを提示し、そこに結集する方法をルールとして定めて、はじめて都市の実践が発動することはすでに述べました。ルールが生まれるのは、恣意的な人間活動の結果ではなく、人間の活動と深くかかわって、もはや必然といえるほどのものであること、またそうでなければルールと呼べないことについてはつぎにふれますが、ここで説明しておきたいのは、実践がスタートしたあとのデザインストラクチャの働きについてです。

ルールが確立されて都市の実践がスタートしたら、ルールを導出したデザインストラクチャはお払い箱になるというのではまったくありません。理念によって開花した現実が人間の逃れられない環境になるというのは、現実がつねにそこに生きる人間によってリアルタイムで検証されるということ、したがってその結果はつねに理念にフィードバックされるということです。現実は冷徹ですから、人間の理性が解放されているかぎり、そこであいまいなもの、無意味なものはただちに排除され、確かなもの、意味のあるものがつねに探求される成り行きになります。こうしてデザインストラクチャは不断に鍛練され、人間は発展していくことができるのです。

この点を押さえるなら、デザインストラクチャがイデオロギーや宗教とはまったくことなった開かれたものとしてあること、デザインストラクチャは未来に向かう人間の力の象徴にほかならないことが、くまなく理解されるはずです。

 

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