街路研究会

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プッリャ州の歴史

オストゥーニ Ostuni

 石器時代から人が住み着いていたオストゥーニの近郊に、オストゥーニとなる町を最初に建設したのは前古代の部族、メッサピー人と考えられる。町はポエニ戦争でハンニバルにより破壊されたが、ギリシャが植民都市として再建、オストゥーニの名称はギリシャ語のAstu néon(New town)に由来する。996年、ノルマン人により征服、1300〜1463年にはターラント公国の属領となり、1507年からはミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの妃イザベラ・ダラゴナの領地となった。この時代はイタリア・ルネサンス期に当たり、イザベラは芸術活動を支援しオストゥーニは黄金期を迎える。1517年、イザベラの娘、ボナ・スフォルツァがポーランド王ジグムント1世の再婚相手となった際、オストゥーニは持参金としてボナの支配するところとなり、彼女も進歩的で寛大な統治を行った。(以上、wikipediaから抜粋整理)
 ——イザベラ・ダラゴナ(イザベッラ・ダラゴーナ)はバーリの女公爵であり、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』のモデルといわれている人物。ポーランド王妃となったその娘ボナ・スフォルツァはイザベラの地位を継ぎ、バーリで没して当地のサン・ニコラ聖堂に埋葬されている——。
 アドリア海に向かう要塞として築かれた白い壁と、要塞内部を同心円状に巡る白い迷宮は「白い街、オストゥーニ」の象徴となって世界の観光客を魅了し、夏の観光シーズンには、人口3万余りの街は10万の人で賑わうとのことです。筆者が訪れた11月は観光客は稀(それでも日本からの4人組と同宿しました)、来シーズンに向けて改装中のお店を多く見かけました。
 それより、オストゥーニの歴史はすごいことになっています。遠来の現代人が数日滞在したから何が言えるかとなると考えてしまいますが、白い街の白い迷宮より、筆者が多大な感銘を受けたのは、むしろ要塞の中心に建つカテドラルの内部空間であったことを、写真を見直して改めて思い起こした次第です。上下左右前後を壁に包まれている客観的な状況にあって、包まれていることの感覚と、包む作用を及ぼす実体として存在している壁との交感を、筆者はそこで激しく体験したのでした。
 アルバムでは繰り返しが多いと感じられるかもしれません。質より量がここでのモットーです。適当にピックアップしてご覧いただければさいわいです。

*写真番号のハイフン以下8桁の数字は、撮影の月・日・時・分(現地時刻)を表示しています。