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プッリャ州の歴史

ノーチ Noci

 ノーチはアルベロベッロの西10kmに位置し、アルベロベッロから私鉄SUD-EST線を利用して10分程で到着します。イトリア谷に点在するほかの都市同様、ここも小高い丘の上に築かれています。ただ紹介済みの他都市と比較して、日本では知られていないイタリアの都市の代表格に数えられるかもしれません。
 イタリア語でノーチはウォールナット(クルミ)の木の意、ノーチの市章には、大きなクルミの木と、それを後脚で立って支えるライオンが描かれています。現在の市章は紆余曲折を経て1935年に制定され、公式の説明ではライオンは力の象徴とされていますが、元来はノーチの封建君主であったコンヴェルサーノの伯爵、アラゴンのアクアヴィーヴァ家を表現しているとのことです。
 そこでノーチの歴史をノーチ市のホームページから翻訳してみましょう。なじみのない固有名詞が頻出しますが、ノーチが辿ってきた道筋の雰囲気をそこで味わっていただければと思います。
 ノーチの起源については、文書や信頼できる資料が欠けているために、今もなお完全には明らかになっていない。6世紀後半に遡るとする説もあるが、最近の研究によれば、ほぼまちがいないのはノルマン統治時代にその起源を求める説である。
 ノーチについての現時点の調査における最古の資料によると、1180年にバーリの大司教ライナルドは、ノーチの聖母マリア教会がコンヴェルサーノの司教カフィージオの管轄下にあることを認めている。
 別の文書には、1240年、イタリア王フリードリヒ2世の命令により、ノーチ市民はルーヴォ城の維持に対して献金を求められたことが記されている。租税の記録となるアンジュー家の利札は、1340年になってはじめてノーチが課税されるようになったことを示している。
 1407年4月、コンヴェルサーノの反体制派の女伯爵、バルゾ家のマルゲリータに服従しなかったノーチに対し、ナポリ王ラディスラオは、その忠誠に対する報償としてノーチを封建的な束縛から解放する旨を布告する。しかし1440年、ターラント王ジョヴァンニ・アントニオ・オルシーノは所有権を主張してノーチを奪回し、1456年の娘カテリーナとジュリオ・アントニオ・アクアヴィーヴァの結婚に際し、持参金としてノーチを彼女に譲り渡すのである。これ以降、1806年に封建制度が廃止されるまで、ノーチはコンヴェルサーノの支配下に置かれることになる。
 ノーチの歴史は所有権と土地使用権をめぐる争いに満ちている。1512年、モットラの男爵トマーゾ・ガラーテはノーチ市民に対し、すでに遠い昔から彼らが利用していた地域ではあったが、 モットラの領地の使用を裁可する。ただし、9月29日から12月13日までのブタ飼育用のドングリと牧草の採集は、ノーチの防壁から3マイルの範囲に限ることとした。いわゆる3マイルの土地は、法的にはモットラの公有地ではあったが、ノーチ市民の生活にとって、さらに一層重要性を増していった。
 さまざまな過程を経たのち、1739年12月30日、マルティーナの公爵、コンヴェルサーノの伯爵、ノーチの代表団、モットラの代表団、その他の住民がナポリに集合して協定を取り交わし、そこでノーチは広大なモットラの領地の大きな部分を獲得することになるのである。
 アルベロベッロ発着でノーチを訪れたのは2010年11月27日土曜日の午前10時半から2時間あまり、天候は薄ら寒い曇り模様、そのためもあってか、ろくな写真はありません。付録として見ていただければと思います。

*写真番号のハイフン以下8桁の数字は、撮影の月・日・時・分(現地時刻)を表示しています。