街路研究会

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プッリャ州の歴史

レッチェ Lecce

 オストゥーニのページでその歴史がすごいことになっていると書きましたが、改めてプッリャ州の歴史を2種類の英語ページから翻訳整理してみました(右上にリンクがあります、イタリア語ページがもっと詳しいのですが、google翻訳で英語からの翻訳を試みるも長すぎて挫折)。プッリャ州の歴史はヨーロッパの歴史そのもの、プッリャ州関連に限っても、おそらく3桁にのぼる歴史書が書かれていると想像されます(ちなみに、イタリア語版 wikipedia「プッリャ州」のページは40冊の書物が参照されています)。
 レッチェの歴史については wikipedia 英語版を逐語的に訳したと思われる同日本語版のレッチェのページをご参照下さい。そのうえで、レッチェを舞台にした人間の歴史が如何なるものかを知る絶好の実例があります。それはレッチェ旧市街地の中心、サントロンツォ広場(聖オロンツォ広場)脇の地下面に雄大な姿を見せているローマ時代の円形闘技場です。
 レッチェがルピアと呼ばれていたローマ統治下の紀元1〜2世紀に建造されこの円形闘技場は、縦横102m×83m、平土間舞台は53m×34m、2万5千人収容の壮大なスケールを誇っていました。20世紀になって掘り返されたのは全体の3分の1、残りは広場を囲む繁華街の下にあります。平土間舞台は地階にあり、観客席はそこから地上高く立ち上がっていました。
 ここで演じられていた剣闘士競技は、326年コンスタンティヌス1世の勅令で廃止され、その舞台であった円形闘技場は無用の長物となります。こうして、地上観客席は他の建物の建築材料として転用され、地下部分は埋め立てられていったのだと想像されます。
 円形闘技場発見の契機は20世紀初頭のイタリア銀行の建設工事でした。地下に埋もれた闘技場跡が発見され、間もなく掘削が始まり、それは1940年まで続きました。紀元1世紀頃、大工事で闘技場が完成した、やがて円形闘技場の存在意義が失われていった、地上部分の構造部分は運び出され、埋め立てされた土地には建物が建ち、次第に闘技場の存在が忘れられていった……、20世紀に驚きとともに発見され、掘り返され、保存されていった、というような時系列が思い浮かびます。いわばここに二千年の歴史が集約されているわけです。
 しかし無論、ここでの問題は[現に生きている人間とこれから生きる人間]と都市の関係です。下のアルバムをご覧になればお分かりのように、レッチェの旧市街地では、二千年の歴史につつまれながら現代人が生き生きと活動しています——そして物乞いの多さもレッチェ旧市街地の特徴です——。筆者はこの事実に感銘を受けます。人間は街路を媒介にして都市を形成し、都市が街路を媒介にして人間を育てることが、過去から未来へ時をつらぬく必然の事態であると感得できるからです。
 レッチェの旧市街地には立派な教会がいたるところにあります(と書きながら、レッチェの教会群のなかで、第一に数えられるべき聖クローチェ教会を見落としたのはお恥ずかしい)。それぞれの来歴はレッチェの壮麗な歴史を増強する材料となるでしょう。がしかし、気軽に見ることがここでは肝要です。そのうえでどうなのか、それからどうなるのか、この辺の意識を働かせてご覧いただければと思います。

*写真番号のハイフン以下8桁の数字は、撮影の月・日・時・分(現地時刻)を表示しています。