プッリャ州の歴史

プッリャ州の歴史は南イタリアの多くの地域同様、実に込み入った関係になっている。その戦略的な位置と肥沃な土壌は植民地化の魅力的な対象になって、地中海人であろうとなかろうと、いろんな国家と民族が、いろんな時に侵入している。搾取がたいていは侵入の目的であったのにたいし、それぞれの征服者は文化、建築、料理法の財産を残し、それらの魅惑的な混合は目に入るものすべてに残っている。

50万年前〜数万年前——古代部族のイリリア人を源とするメッサピー人が住み始める。(プッリャ州では旧石器時代の遺構が多く発見されており、なかでもプッリャ州最北、フォッジャ県のパリッチ洞窟は現在、ヨーロッパにおける最も重要な旧石器遺跡とみなされている)。ミケーネ文明期のギリシャが次第に植民地化していく。

紀元前8世紀——スパルタからのギリシャ人がイタリア南西端からターラント湾に到達、そこでターレス(ターラントの古名)を建設する。ターレスを中心に繁栄した地域を古代ローマはマグナ・グラエキア(大ギリシャ)と呼んだ。紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけてターレスのギリシャ移住民が産んだ陶器は、その独自の文様で知られている。

紀元前272年——プッリャ州の重要性を認識していた古代ローマは、紀元前4世紀から同3世紀にかけてのサムニウム人やピュロスとの戦いを経て、プッリャ州を支配下に置き、ギリシャ人を追放し地域を即座に植民地化する。そこで生産される小麦、オリーブ油、ワインは、拡大する帝国の人間を養うために有用なものとなる。

紀元前216年——第二次ポエニ戦争中、ハンニバル率いるカルタゴ軍はプッリャ州北のカンネーでローマ軍を撃破、これはローマ軍最悪の敗戦のひとつとなったが、結局ローマは支配力を保持し、地域は農業生産の中心地として、また東への交易場所として繁栄していく。

紀元前190年——ローマ帝国はローマとプッリャ州をつなぐアッピア街道を完成、このおよそ100年後にレッチェの円形闘技場が着手される。

紀元476年——ローマ帝国の没落。

紀元488年——イタリアとプッリャ州は東ゴート族の支配下におかれる。

6世紀——ランゴバルド族が現れ、短命のイタリア王国を樹立する。その後は東ローマ帝国が支配するところとなり、バーリは西方バジリカータ地方まで広がる属州の首都となる。800年から断続的にサラセンが現出してくるが、11世紀にノルマン人により比較的容易に征服されるまで、プッリャ州は東ローマ帝国の権力のもとに置かれる。

1059年——ノルマン人の傭兵だったロベルト・イル・グイスカルド(イル・グイスカルドは「狡猾な人」の意)がプッリャ公国を設立。続く1060年〜1090年のノルマン人によるシチリア侵略の後は、プッリャ州西端に接するメルフィがシチリアの首都パレルモに代わってノルマン人勢力の中心となり、プッリャ州は、はじめシチリア王国の、次にナポリ王国の単なる遠隔の一地方になっていく。

1087年——水夫たちが聖ニコラの聖遺物をバーリに持ち帰り、間もなくサンニコラ聖堂の建設が始まる。

1200年頃——その広い学識、合理性、科学的好奇心の強さで「世界の驚異」と呼ばれた神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がプッリャ州を相続、シチリアを離れる際の多く時をプッリャ州ですごす。その啓蒙的な統治によって芸術の隆盛と比較的平和な繁栄がもたらされる。彼の手によって、バーリのサン・サビーノ大聖堂のような素晴らしいロマネスク建築とともに、トラーニのカステロ・スヴェーヴォやアンドリアのカステル・デ・モンテ等、多くの城が残っている。

13世紀——フリードリヒ2世の子、ホーエンシュタウフェン朝のシチリア王、マンフレーディが戦死した後、フランスのアンジュー家が現れ、プッリャ州はナポリ王国の配下に入る。

1480年——ゲディク・アフメト・パシャ率いるオスマン帝国軍がオトラント(プッリャ州最南の都市)を包囲、占領のさいには数千人にのぼる15歳以上のすべての男子が殺害される。年老いた大司教は信仰を捨てることを拒否したため、公衆の面前で截断され、切り落とされた頭部は槍に突かれて町を行進したという。

1500年——スペイン王国の創建者、アラゴンのフェルナンド2世が支配権を握り、領土の大部分は少数の強大な地主が支配するようになっていく。オスマンの侵入に備えてオトラント、バーリ、ターラントの要塞化が図られる。

1713年——ユトレヒト条約によりプッリャ州はオーストリア領となる。

1734年——スペインはビトントの戦いでオーストリアを撃破、自国領としてプッリャ州の返還を要求。オスマン帝国やヴェネチア人は地域の足がかりを得ようとして海岸地帯に繰り返し攻撃をしかける。

1806‐1815年——フランスが支配権を握り、そのなかで封建制度の廃絶と裁判制度の改革が進んでいく。

1861年——両シチリア王国が崩壊、リソルジメント(イタリア統一運動)でプッリャ州はイタリア王国に統合される。

1922年——ムッソリーニはイタリアの自給自足を企て、小麦、オリーブ、ワインの生産を増強する。

1943年——連合軍が来襲しドイツ軍を追い払う。バーリ、ブリンディジ、ターラントの港湾は両軍からの激しい爆撃をうける。19世紀からゆっくり進んでいた社会制度と土地所有制度の改革は20世紀中葉から加速されていく。