街路研究会

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アルベロベッロ俯瞰図
プッリャ州の歴史

アルベロベッロ Alberobello

 アルベロベッロのトゥルッリは1996年にユネスコの世界遺産に登録されています。といっても、トゥルッリはアルベロベッロに限らず、この周辺に広く分布しているわけで、アルベロベッロが特別なのは、トゥルッリによって町並みが形成されている点です。トゥルッリは、材料となる石灰岩が地域一帯の身近な素材であること、モルタルを使わない組積造であることから、住民にとって比較的容易に建築できる建物であったと思われます(ちなみに、ここらの畑地は耕作時に排出される石を積み重ねた壁で囲まれています)。
 14世紀のある古文書ではアルベロベッロの地帯を"Silva Arboris Belli"と呼称しています。ラテン語で「戦いの樹の森」の意、これがアルベロベッロの語源になるのですが、当時、地域全域はオークの森で覆われていたといいます。
 無人であったと思われる地域が、その後、いかにしてトゥルッリによる町並みを形成するに至ったのか、ついでに言うと、周辺都市と比較して、中心核を持つ有機的な集合体としてではなく、どちらかというとスプロール的に広がる町並みを形成するに至ったのか、興味深いストーリーが提供されていますので、ピックアップして以下に整理してみましょう(主にユネスコ世界遺産アルベロベッロのトゥルッリのページWikipediaイタリア語版アルベロベッロのページを参照しています)。
 そのまえにストーリーの舞台となる14〜18世紀の時代背景を確認しておきます。13世紀以降、プッリャ州はナポリ王国の支配下にありました。16世紀初頭、スペインのアラゴン王フェルナンド2世に征服され王国としての地位を失いますが、ナポリ総督管轄区となってスペインから派遣される総督が管理するところとなります。その内部は少数の強大な地主によって分割支配され、地主が土地を開拓し入植を行うにあたっては、第一に国王の許可を必要とすること、継続的に税金を納めることがアラゴンの法律で義務づけられていました。ここを押さえるとストーリーの展開が読めてきます。
 アルベロベッロの今日の居住は14世紀中葉に遡る。アルベロベッロ地区はこの時期、十字軍への貢献の報酬として、ターラント王、アンジュー家ロバートからコンヴェルサーノの第一伯爵に下賜された。彼とその後継者は自身の封土からの移民によって地域を開墾し、入植者にカゼッレ(トゥルッリの地方名)として知られていた小家屋の建設を許可した。しかしながら最近の研究は、紀元1000年頃から点在していた農民住居が徐々に集まり、今日のアイア・ピッコラとモンティ両地区の形成に至ったことを暗示している。
 言い伝えによれば、(モルタルを使用しない)乾式石造壁造りが入植者に課せられたのは、それが容易に取り壊せるためだったという。このことはふたつの目的にかなっていた。反抗する戸主を容易に追放できたということ、そして入植への課税を免れることができるだろうという点だった。後者の場合、建物はおなじく迅速に再建できたであろう。事実、このことはナポリ総督派遣の税調査官の裏をかくという出来事として起きている。しかし歴史的な比較分析は、トゥルッリの建造が地域事情へのごく些細な物的反応としてあったこと、後に懲罰上の目的のために利用されるようになったことを示唆している。
 16世紀のはじめ、コンヴェルサーノの伯爵、アラゴンのアクアヴィーヴァ家アンドレア・マッテオ3世の働きかけにより最初の移民活動のひとつが始まる。彼はアラゴンの法律を無視しながら、収穫の10%を納入する条件で近隣都市ノーチから40家族を移民させた。居住が拡大しはじめるのは、強者、アクアヴィーヴァ家の伯爵ジャン・ジローラモ・グエルチョがパン屋、製粉所、宿屋の建築を命じた1620年である。
 1644年、ジローラモの税金逃れの無法を快く思っていなかったマルティーナ・フランカの公爵、カラッチオーロの訴えにより、国王の税務調査が行われることになった。しかしジローラモは住民に家屋の解体と一時的な退避を命じ、一夜のうちにそこは単に石材の散在する場所になったという。
 共同体の人口が3,500人を超えていた1797年、不安定な生活に耐えかねた住民の一団はアルベロベッロからターラントに出向き、ナポリ王・フェルディナンド4世に窮状を訴えた。結果、同年5月27日、アルベロベッロはロイヤル・タウンの地位を獲得し、アクアヴィーヴァ家の封建支配を終結させたのであった。この時以来、トゥルッリの新築は急速に減少していった。
 以上を頭に入れれば、冒頭の疑問、つまり、アルベロベッロが中心核を持つ有機的な集合体としてではなく、どちらかというとスプロール的に広がる町並みとして形成されるに至ったのは何故なのか、その答えが多少とも見えてくる気がします。実は、この点からアルベロベッロは筆者の興味の対象から外れていたのですが、しかし、おとぎの国とも評されるトゥルッリによる町並みは十二分に魅力的であることに変わりありません。
 筆者のように硬いことを言わず、楽しんで見ていただけだばと思います。

*写真番号のハイフン以下8桁の数字は、撮影の月・日・時・分(現地時刻)を表示しています。