都市の哲学 田村敏久・著

ルールの具体的検討に入るまえにみておきたい最後のひとつは、ルールの性格です。ルールがルールとして文章化されると無機的な様相をみせますし、また無機的であることがルールの基本的な要件であるかのように思われがちです。たしかに、あらゆる場合に必要最小限の範囲で公平に働くのでなければルールとして失格ですから、そのために冷静で客観的であることがルールの必須条件といえます。しかし、ルールを冷たく非情なものとしてだけ捕らえるなら、結果が満足すべきものであるとしても私たちの実践はおもしろくありませんから、そのとき理性の働きが鈍くなるおそれがあります。もちろん、ルールほんらいの姿はまったくちがっています。したがって、そのことを明確に把握しておく必要があるわけです。

ルールというものがあるなら、それはたしかに人間と人間を結ぶものであり、またそういうものでしかありえないことを、私たちの反省的な理性は認めるはずです。そもそも、ルールが人間の理性の産物としてあるほかない事情が、その説明になっているはずなのですが、しかしいったんルールができあがってしまえば、そのもとにある人間と人間の関係は忘れられがちです。そうなるとルールは空虚な形式と写りかねませんから、私たちの実践にブレーキがかかるおそれがあります。したがってルールを問題にするなら、私たちはつねに人間と人間の関係に立ち返る必要があります。それでは都市のルールのもとにある人間と人間の関係はどうなっているのでしょうか。

そこで、都市の人間の存在の形態を調べてみることにします。というのは、ルールの根源はそこにしかありえないからです。人間の存在の形態が規定されるにさいして、あらゆることが関与していますが、これまで検討してきた私たちにとって、人間の存在の形態を決定するもっとも基本的な要素は、人間が存在する場所であることは明らかです。人間の場所が、人間の存在の方法を根底から規定しているのです。

都市の人間の場所を反省してみますと、それはつぎの三つに分けられます……建物のなか、街路上、自動車のなか。こうして分類されるの、そこが都市だからであり、都市以外ではこういかないことに注意してください(ためしに、山のなかに生活する場合どうなるか、考えてみればはっきりするでしょう)。

この都市の三つの場所のうち、建物と自動車のなかにいる人間からいわせれば、街路上にいる人間は、たんに外部にいるということになりますが、そう済ましてならないのは私たちにとって明らかです。都市をあつかうとは、すなわち街路上にいる人間の存在の方法をあつかうことにほかならず、したがって、都市を構成するためのルールは街路上の人間の存在について言及するときにはじめてもとめられ、生まれるのです。

街路という場所は建物によって構成され、現状では自動車によってその様相が決定されていますから、街路をあつかうことは、すなわち建物をあつかい、自動車をあつかうことにほかなりません。こうして街路上の人間の存在方法に言及すれば、必然的に物としての建物と自動車の存在のしかたが問題になり、それはおのずと建物のなかの人間と自動車のなかの人間の存在のしかたに波及していきます。

ここにルールの流れを重ねあわせれば、都市のルールがどのような人間と人間の関係に根拠を置くのかが明らかになります。すなわち、都市のルールはその本質において、街路上の人間、つまり歩行者と建物のなかの人間、あるいは歩行者と自動車のなかの人間が取り交わす契約なのです。

私たちは都市のルールをあつかう場合に、つねにここに立ち返える必要があるだろうと思います。そのとき、無味乾燥にみえるルールが、じつは都市に人間の場所をつくりだすために必要な、都市に生きる人間と人間の約束にほかならないことが明示されて、ルールは人間の体温をうしなうことなく、永遠に生きつづけることができるはずだからです。

 

プロフィール