都市の哲学 田村敏久・著

話が脇道にそれたようですが、[天井]をもつ空間での、空間のあらわれかたと場所の察知の方法を整理して、この章を終えることにしましょう。

天井をもつ場所では、空間は明快で確実なすがたであらわれ、その結果おなじく、場所は人間によって明快に確実に察知されるのにたいし、[天井]をもつ場所においては、空間はこわされ断片となっており、そのため人間は場所を察知するにあたって、空間をひとつの全体としてではなく、断片となった空間の集合という程度で把握できるにすぎません。つまり天井が[天井]となっている空間では、天井がこわされ断片化されている程度におうじて、空間の一体性が破壊され、そのため全体をひとつの意味のある場所として察知することがむずかしくなります。

人間が自分の場所を察知するという意味から、これが人間の内面の欲求に応えられない状況であるのは、アーケードに向けられた人間の欲求をただしく捉えることができれば明らかですが、それがいかなる空間であるかを、もうすこしかみ砕いて説明すれば、それは騒がしい空間であるということです。騒がしいというのは、もちろん物理的・現象的なそれではなく、場所の人間の内面にたいする働きという面でのそれです。アーケードの、いわば使用前と使用後の空間ので経験を思い出せば、騒がしいという言いかたが指す内容をだれもが想像できるはずです。

[天井]もつ空間が騒がしいからといって、そこで人間の命に別状があるわけではないというのが一般的な見方かもしれませんが、それは人間の命にとっての基本的ではあるが初歩的な面でいえるにすぎず、実情はまったくそうではありません。場所が騒がしいと感じられるというのはどういうことでしょうか。それはつまり場所を察知し承認しなければ、強制される以外、人間は自ら行為を起こすことができないという、人間の存在のしかたに直接関係しているということです。

お祭り騒ぎに興じて我を忘れるのではなく、人間が自分の存在をささえ、行為というかたちで自分を展開しようとするなら、その基盤に、しんと感じられるほどの静かな場所がなければなりませんし、またじっさいのところ本来的に人間はみなそういう場所を望んでいます。現代において、静かな場所を希求する欲求が顕在化していないように思われるのは、たんに、みずからを展開しようとしない人間にとって当面、静かな場所はどうでもいいということにすぎないのです。しかしお祭り騒ぎに浮かれたままで、みずからの存在を展開しようとしないでいるなどは、正気の人間なら出来ない相談ですし、理性をもった人間にとって恥ずかしいことです。

人間の存在をささえている場所についての課題は、行為を展開する場所を騒がしい場所に放置しておくのではなく、静かな場所につくりあげることです。このことが、とりわけ都市において強調されなければならないのは、もはや説明するまでもないはずです。都市にあって、建物の外部は建物自身によって、街路という都市に特有の形態をとる以外にないのに、街路を騒がしい場所に放置しておくのは、人間にとっておおきな損失であるばかりでなく、都市に生活する意味をみずから否定することにほかならないからです。都市という場所は自然を喪失した人間の墓場ではまったくなく、人間がみずからに最高の可能性を付与した場所なのです。

こうして都市の構造にほかならない街路について、天井をもった静かな場所につくりあげる方向性がしめされましたが、それではどこの都市でもかまいません、街路の現状を思い起こしてください。そこには我が物顔の自動車のながれと、控えめとはいえ、それなりの歩行者のながれが目につきます。街路の代表的なふたつの利用者である両者のあいだに、自動車が歩行者にとっての脅威になっている現実がありますし、またさらに、居住環境がなにによって構成されているかが明示されているわけではありませんが、自動車が居住環境を悪化させる元凶となっているという指摘が一方にあります。

したがって街路の方向性を現実の射程におさめるには、街路の利用者である自動車と歩行者について、それぞれの運動が意味するところを明らかにしながら、街路における両者の望ましい関係を提示する必要がありますし、それなくして街路の現実を動かすことはできません。

そこで次章において、まず歩行の意味を明らかにし、つづいて自動車のながれが意味するところを探って、おおきな観点から街路の方向性を全体として明らかにします。それらの作業もまた哲学という名称をあたえられるはずです。哲学とは、あたりまえと思われている物事を、それをささえている根底に立ち返って吟味することだからです。

 

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