私たちは建物の内部がいたたまれなくなったらどうするでしょう。とりあえず建物の前面にある街路に出るほかありません。そのとき庭に逃れるというというひとがそう多くいるとは思えませんし、またそうしたひとびとばかりが生活する場所があるなら、そこは都市とはいえないでしょう。また反対に街路がいたたまれなくなったらどうしましょう。とりあえず適当な建物の内部に場所を移す以外にありません。公園に逃れられるひとは余程の幸運といえるでしょうし、そもそも都市にあって公園はかろうじて‘反−都市’としてしか、その存在が認められていません。(ちなみに、道路を広げて一部を公園のようにしたもの、たとえば札幌市の大通り公園は法律的にも公園ではなく街路ですし、広場一般は街路の一形態です。) 建物の内部から逃れようとしたら街路に出るほかなく、街路から逃れようとしたら建物の内部に身を置く以外にない、これが都市に生活する私たちの実態です。この状況は建物の外部は街路だという常識的な事実とともに建物が街路の外部として機能している事実を説明しています。都市にあって建物の外部が街路であり、街路の外部が建物であるという事実は、さらにコントラストを強めて次のように表現されます。つまり都市に生活する人間は建物と街路に閉じ込められているということです。 |
この状況を現代の宅地開発でのお決まりコースのように、道路がはじめに整備され、その両側に建物が並んでいるとだけ捉える必要はありません。集合しようとする建物が集合しようとするゆえに互いに向かい合いながら並列し、おのずと街路をかたちづくることだって、建物と街路の関係を深く知ればごく自然なこととして理解されるはずです。およそ図面に描くには不適当と思われる曲がりくねった、ある場合には稲妻の軌跡のような街路が建物に先立って整備されたと考えるのは不自然ですし、効率的であることが最高の価値とみなされる場合をのぞいて、建物に先立って道路が整備される必要性もほんらいあるわけではありません。
ともかく建物が集合しようとしたら、建物は互いに向かい合って並列し、その間を街路にかたちづくりながら集まる以外に方法はありませんし、その状況が大規模に展開されたのが都市であるわけです。それなら、集合する建物に秩序をあたえ都市という全体に結実させている仕組みは街路であり、またその仕組みが現前した具体的なすがたが街路であることを宣言するのに、もはや躊躇する必要はないでしょう。 都市の構造は街路であり、また都市の構造は街路となってあらわれています。
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マルティーナ旧市街地の街路イタリアのかかと部分に位置するマルティーナ・フランカの旧市街地。建物間のすきまがどのように形成されていたのかを想像するのは刺激的だ。 |