都市の哲学 田村敏久・著

私たちは建物の内部がいたたまれなくなったらどうするでしょう。とりあえず建物の前面にある街路に出るほかありません。そのとき庭に逃れるというというひとがそう多くいるとは思えませんし、またそうしたひとびとばかりが生活する場所があるなら、そこは都市とはいえないでしょう。また反対に街路がいたたまれなくなったらどうしましょう。とりあえず適当な建物の内部に場所を移す以外にありません。公園に逃れられるひとは余程の幸運といえるでしょうし、そもそも都市にあって公園はかろうじて‘反−都市’としてしか、その存在が認められていません。(ちなみに、道路を広げて一部を公園のようにしたもの、たとえば札幌市の大通り公園は法律的にも公園ではなく街路ですし、広場一般は街路の一形態です。)

建物の内部から逃れようとしたら街路に出るほかなく、街路から逃れようとしたら建物の内部に身を置く以外にない、これが都市に生活する私たちの実態です。この状況は建物の外部は街路だという常識的な事実とともに建物が街路の外部として機能している事実を説明しています。都市にあって建物の外部が街路であり、街路の外部が建物であるという事実は、さらにコントラストを強めて次のように表現されます。つまり都市に生活する人間は建物と街路に閉じ込められているということです。

 
 

都市に生活する人間は建物と街路に閉じ込められているという言い方がおおげさかどうかは、都市を上空から見おろしたときの光景を思い浮かべて判断してください。街路上を動きまわる豆粒程にしかみえない人間たちがそのあと建物に入るのはまちがいないですし、じっさいかれらを収容するのは建物しかありません。建物内部で活動する人間たちは見えませんが、病人以外はかれらもそのうち街路に出てくるのはまちがいありません。隣接する建物同志のすき間に身を潜めるというのは余程の事情のある場合に限られますし、公園はずっと遠くにあってよく見えません……。

都市に生活する人間は建物と街路に閉じ込められているのなら、建物と街路の両方を人間の場所としてよりよいものにしなければならないというのは、人間ならだれしも考えるところです。じっさいのところ、都市の倫理が発芽する土壌はここにしかありえない、というよりそうだからこそ、そこを土壌にして都市の倫理はおのずと発芽するはずです。しかし、しっかりとした発芽をうながすには、あらかじめ土壌を十分に耕しておく必要があります。

そこで都市の構造とはなんなのか、ここでの問いにきちんとした答えを出しておかなければなりません。そのまえに、構造という言葉はむずかしそうな印象を与えそうですので、都市の構造という言い方自体が指示する内容を明らかにしておきましょう。

構造という言葉がむずかしそうなのは、その意味するところが抽象的かつ多面的で、それはいろいろなものを指す言葉として使われているからです。都市の構造とは、都市を都市たらしめている仕組みであり、その仕組みの具体的なすがたかたちを指します。「人間の構造」(機械にように動く生物としての人間の構造)という言い方は「都市の構造」とおなじ表現に見えますが、この場合、人間の構造とは骨格と筋肉であり、それは見たりさわったりできますし、その体系的な全体のかたちを図によって書き表すことができます。都市の構造も「人間の構造」の場合との類比として考えることができるはずです。

都市の構造について、先にみてきたところを整理しますと次の二点に集約されます。

  1. 都市の構造を決定している要素は建物と街路である。
  2. 建物と街路は都市の人間のふたつの場所であり、建物は都市とは無関係な場所であるのにたいして、街路は都市以外にありえない人間の場所である。

ここから、都市の構造と呼ばれるものがあるなら、それは街路によって担われている予感がするはずですが、じっくりと見ていきましょう。建物それ自体は都市とは無関係な存在であっても、都市と呼ばれるエリアは建物が集合する地域にほかならないことを調べてきました。建物自体が都市をもたらすことはないけれども、建物の集合によって都市が形成されている。このことは私たちの常識からいっても十分に納得できるはずです。これはつまり、建物は都市を構成するメンバーであり、またメンバーにすぎないことを指示します。

建物が都市を構成するメンバーであり、またメンバーにすぎないなら、集合する建物に秩序をあたえて都市という全体に結実させている仕組みが都市の構造であるのはまちがいありません。都市を斜めに見おろせば建物群が乱雑に重なりあって見えますが、ほんとうにそうなら建物は機能しえませんし、したがって都市も形成されません。乱雑に重なりあって見える建物が、ほんとうはそうではないことは、目の位置を高くして建物群を真下に見おろせばはっきりします。そのとき、街路の両側にきれいに並列する建物群が発見されるはずです。

ミュンヘンの街路

ミュンヘン市のノイハウザー通り。この写真は都市の人間が街路と建物に閉じこめられている実情をよく説明している。

  この状況を現代の宅地開発でのお決まりコースのように、道路がはじめに整備され、その両側に建物が並んでいるとだけ捉える必要はありません。集合しようとする建物が集合しようとするゆえに互いに向かい合いながら並列し、おのずと街路をかたちづくることだって、建物と街路の関係を深く知ればごく自然なこととして理解されるはずです。およそ図面に描くには不適当と思われる曲がりくねった、ある場合には稲妻の軌跡のような街路が建物に先立って整備されたと考えるのは不自然ですし、効率的であることが最高の価値とみなされる場合をのぞいて、建物に先立って道路が整備される必要性もほんらいあるわけではありません。

ともかく建物が集合しようとしたら、建物は互いに向かい合って並列し、その間を街路にかたちづくりながら集まる以外に方法はありませんし、その状況が大規模に展開されたのが都市であるわけです。それなら、集合する建物に秩序をあたえ都市という全体に結実させている仕組みは街路であり、またその仕組みが現前した具体的なすがたが街路であることを宣言するのに、もはや躊躇する必要はないでしょう。

都市の構造は街路であり、また都市の構造は街路となってあらわれています。

マルティーナ旧市街地の街路

イタリアのかかと部分に位置するマルティーナ・フランカの旧市街地。建物間のすきまがどのように形成されていたのかを想像するのは刺激的だ。

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